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長崎バイオパークのラッコたち

長崎バイオパークでは2000年までラッコを飼育していました。

1986年、園の再オープンと共に九州で初めて飼育が始まり、当時の新聞では公開当初は長蛇の行列が出来るほどの盛り上がりだったそうです。

スタッフのラッコエピソード


開園当初から勤務している職員によるとラッコを入れてしばらくは来園者があまり来ず、次の年のゴールデンウィークに客が詰めかけたとも話されていました。オープニングイベント時は客が詰めかけていたようですが…。

副園長にもお話を伺いました。

バイオパークは海があまり近い方ではないので、ラッコプールに使う海水を汲むための設備を離れた海岸に設置してあり適宜汲みに行くのですが台風の時は設備を元に戻すのが大変だったとか

ラッコ自身については、母ラッコが死産をした時に何日間か死んだ赤ちゃんラッコを離さなかったため泳いでいって職員が取り上げたのですが、母ラッコの怒りを買い噛まれるなどの攻撃を受けたそうです。マリンワールドでもマリンからマナを人工保育に切り替えるために取り上げた時、激しい鳴き声をあげたそうです。母の愛が強い。



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再オープン時の特集記事ではラッコ水槽にコンブを植え付けたりする構想もあったようですが、どうだったんでしょうか。ラッコはイタズラ好きなのでやっていたとしても長くは持たなかったのかもしれません。

今ではラッコの記録もマレーシア情報館のこのパネルだけとなっています。

2020年11月15日~2021年3月31日まで「長崎バイオパーク40周年メモリアル写真展」が開催。過去の長崎バイオパークのパンフレットや写真などが展示されました。

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ケープハイラックス

飼育を辞めたのはラッコが途絶えたことも理由ですが、餌代の他に冷房費用や水槽の循環設備などメンテナスが追い付かなくなったことが原因でもあるようです。施設の老朽化によってオタリア→ピラルク&ナマケモノ→ケープハイラックスと展示動物の内容も変わっていきました。


ケープハイラックスの展示になったラッコ水槽に残る、ラッコを飼育していた名残

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今は使われていないと思われるダクト。

ここから冷気が出ていたみたいです。


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排水口


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鳥羽水族館やマリンワールドでも見られるラッコが水中から顔を出すための穴


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ここから水中でラッコが泳ぐ様子を観覧できたのですね。


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ラッコがここで泳いでいた様子を思い浮かべてみます。


長崎バイオパークで過ごしたラッコたち
ラッコ2

赤は雌、青は雄のラッコ

長崎バイオパークの職員の方に伺っても、当時のラッコ担当だった飼育員が辞めたのでどんなラッコがいたかはわからないとのことでした。仕方ないので長崎新聞から記事を探したり、ネットで情報がないかさがしていたら長崎バイオパークで獣医をやっていたという方の記事が見つかったというわけです。

その獣医の方はよその園に移ってるとのことでしたので、その園にダメもとでメールを送ると電話が来て知っている範囲で教えてくれるとのことで個体情報を取り寄せてくださり、メールで血統情報も書かれたラッコリストを受け取りました。この場にてご厚意に感謝します。

検索で偶然見つけた、須磨海浜水族園の「うみと水ぞく第22巻4号」の”国内のラッコ3世一覧”によると長崎バイオパークで平成8年1月23日、9月6日、平成9年10月24日にラッコ三世が生まれているようですが、リストにはそれに該当するラッコは見当たりませんでした。相当短命だったからなのかもしれません。


長崎バイオパークでひと際活躍したのが、ラッコのハムくんだったようです。1996年秋にダンクシュートをするラッコとして新聞に紹介されています(朝日新聞1996年11月20日、西日本新聞1996年10月20日)。

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40周年メモリアル写真展で展示されていた、バスケットボールをバケツに入れるラッコのハムくんの写真

「4月頃、プールの底(水深4メートル)から自分が食べた貝殻などを拾ってきて飼育係に返すようになり、それをきっかけにバケツにバスケットボールを入れたり、輪投げをしたりして芸を仕込んだという。」

と朝日新聞のトピックスで紹介されています。

ネットでの書き込みで、バイオパークにバスケットをするラッコを見に行ったというのを見つけたので記事を探しました。バスケットをするラッコといえば大分マリーンパレスが有名でしたが、長崎にもいたんですね。

長崎バイオパークのラッコたちは比較的短命で1997年に途絶えていますが、長崎水族館からラッコを続けて2頭譲り受けることで2000年までは飼育を継続していたようです。長崎ペンギン水族館館長は閉館するときに「幸」を長崎バイオパークに送ったことは知っていましたが、「平太」と「成太」については覚えていないか知らなかったようです。

平太はテレビに出演したこともあったとTwitterの書き込みで見ました。マナの叔父と叔母はひっそりと長崎バイオパークのラッコの飼育を継続させていました。これは長崎水族館側もマリンワールド側も長崎バイオパーク側も知らないことでしょう。

長崎バイオパークは記念誌のようなものを出版しておらず、発行物はカバとシマウマのもののみで過去にどんな動物を扱っていたかの記録はまともに残っていません。長崎新聞の長崎バイオパーク特集記事や園館の動物移動記録を調べている方が発見したもののみとなっています。

長崎バイオパーク園内でも過去に飼育されていた生き物の記録は火災による焼失により、園にも詳しくは残っていないということなので今後になるべく記録が残るよう調べた内容をラッコマニアの方に資料を提供してNoteにも書き記しました。

長崎バイオパーク40周年メモリアル写真展

ラッコ関連の展示物

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パンフレット


旅行情報誌の長崎バイオパークの記事


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るるぶ情報版493ハウステンボスNAGASAKI HOLLAND VILLAGE


1992年頃の長崎バイオパークパンフレット
エビや小魚と同居していたことがわかります
【チューヤン日本旅日記】
p147p~p155、1999年2月19日~1999年2月22日
チューヤン氏がテレビ番組「電波少年」日本縦断企画で長崎バイオパークにてアルバイトをしていた時に、ラッコの平太と幸のお世話をしたことが書かれています。

平太は幸の餌をよく奪っていて亭主関白だった模様。長崎バイオパーク40周年記念日に、本を長崎バイオパークの事務所の方に目を通していただくと、当時の様子を懐かしんでおられました。


次回は1989年、マリンワールド海の中道のオープン当時にいたラッコについて記事にします。

※2021年4月6日、長崎バイオパークメモリアル写真展の掲示物の写真、るるぶ長崎の記事を追記

※2021年4月8日、長崎バイオパークのスタッフから聞いたラッコエピソードを追記しました

※2022年5月14日、佐世保市立図書館で見つけた長崎バイオパークのパンフレットとチューヤン日本旅日記の情報を追記


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