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許すということ

やっぱり勧善懲悪の物語は痛快ですね。

池井戸潤の「下町ロケット ゴースト」「下町ロケット ヤタガラス」を続けて読みました。読後感が心地好い。

「世界は誰かの仕事でできている」を体現するかのように、宇宙科学開発から下町企業まで一本の線で繋がっているイメージです。

研究開発や資金繰りなど、企業は様々な問題を抱えながらも、微妙なバランスで冷や汗をかく思いで日々を営んでいます。バランスが崩れた時、これらは大事件となる。

不可抗力なものもあるでしょう。反対に、悪意によるものもあります。

悪意で以て謀略や裏切りを仕掛けられてしまったら。。当然、困ります。失意や怒りに激しく包まれることでしょう。
個人的な記憶でも、このような仕打ちをされたことは何年経っても忘れません。復讐できずにいる自分を不甲斐なく思うことすらあります。

このような"敵"が何かの原因で危機に陥ってしまった時、どのような気持ちになるのでしょうか?私はそのような状況を経験したことがないので想像することが難しいのですが。。「ざまあみろ」くらいは思うかもしれません。

では、敵を助ける選択肢が自分にあった場合、いかに振る舞うか?助けることを選択するのは、格好良くて賞賛されるべき行動でしょう。それは理解できる。しかし、蠢く憎悪が助ける選択を支持するとは到底考えられない。想像するだけで苦しくなります。

池井戸作品では主人公は困難な方を選ぶ訳です。その選択に対して、とてつもなく感動している自分がいる。決して「何で助けるんだよ。敵じゃん。」とはならない。

許し助ける行為は尊いことだと本能レベルでわかっているのでしょう。

負の感情を押し退けてでも尊い選択をできるようになりたいものです。

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