泣くことを忘れていた
泣かない子だった。
涙の理由が分からなかった。
練習をしたのだ。泣かない練習を。
泣きそうになれば、自分をツネる。視線を外して気を逸らし、別のことを考える。そうやって泣かないようにした。
いつしか、泣かない自分が出来上がっていた。
『帰ってきたドラえもん』を観ても、泣かない。『のび太の結婚前夜』を観ても、泣かない。クラスでイジメ問題があって泣いている子を見ても、泣かない。ケガをしても、泣かない。
母は私を「冷たい」と言った。
たしかあれは、小学校1年か2年だったと思う。幼稚園の頃の友達Mちゃんの家で『ライオンキング』を観ていた。ケロッとしている私の横で、Mちゃんはポロポロと泣いていた。
「Mちゃんは感性豊かで優しいんだね。翼はこういうのを観ても泣かない。愛情が薄い、冷たいんじゃないかしら」
どの口が言う。「そうかな〜」なんてヘラヘラしながら、腹の底でそう思った。子供でも、腹の中は表と違うことはあるのだ。
ねえママ、私が泣かなくなったのは、あなたがいたからだよ?
もともと怖がりだった私は、3歳くらいまでは泣き虫だったらしい。
親に叱られては泣き、転んでたんこぶをつくっては泣き、セーラームーンの着ぐるみを怖がって泣き、サンリオピューロランドの入り口の暗さに怯えて泣いた。
同時に、コロコロと気分が変わる子でもあったようだ。泣いた直後にケラケラ笑っていることも少なくなかった。
母は、それを遊んだ。
泣きそうになれば「やーい、泣く、泣く」。泣いた直後に笑えば「今泣いたカラスがもう笑った!」。
今ならそれが意地悪でもなんでもなく、ただかわいくて、いじらしくてやっているのだと頭では分かる。
けれど、当時の私はそうやって母にいじられるのが、この上なく嫌だった。悔しかった。
泣くってことは、恥ずかしいことなんだ。泣いたら笑っちゃダメなんだ。泣いたらバカにされるんだ。
なら、最初から泣かないようにしよう。
そうして、泣かない練習を重ねた。泣きそうな自分に鈍感になるようにした。
小学校入学から18歳で親元を離れるまで、泣いた記憶は片手で数えられる程度だ。
誰かの転校でも、卒業式でも泣かなかった。中高一貫校で成績が足らず一緒に高校に上がれないクラスメイトがいても、泣かなかった。海外英語研修の最終日、ホストファミリーが目にいっぱい涙を溜めていても泣かなかった。
泣いたほうが良さそうな空気では、奥歯を噛み締めて堪えるようにあくびをした。そうすれば、泣くのを堪えているような表情になり、目は潤う。涙を流さずとも泣いている風になれる。
いつの間にか、「泣かない私」は「泣けない私」になっていた。
それが、どういうことだろう。
最近は、「泣く」を制御できなくて困っている。
自分のことを話そうとして、泣く。夜に一人で考え事をしながら、泣く。小説を読んで、泣く。舞台を観て、映画を観て、泣く。喉の付け根と胸の間のあたりがモゾモゾして、抑えようとするのだけれど、抑えきれずに涙が勝ってしまう。その涙は、悲しいからでも悔しいからでもないときがある。
〝なぜ泣けるのか〟で涙の理由が分からなかった私が、今は〝なぜ泣いているのか〟で、涙の理由が分からない。
なぜ泣くようになったのかも、どのタイミングで泣くようになったのかも、分からない。
もしかしたら一人暮らしをするようになって、〝見られていない時間〟が増えたから、泣けるようになったのかもしれない。あるいは自分だけではうまくいかないことが増えたからかもしれない。理由は何か一つではなく、いろいろあるのだろう。
ただ一つ、確かなことがある。
泣くようになってから、ほかの感情も豊かになったように感じるのだ。
もっと強く「楽しい」と感じるようになった。もっと笑うようになった。もっとプンスカするようになった。もっと美味しいと感じるようになった。もっと綺麗だと感じるようになった。
泣きそうな自分に鈍感になることは、ほかの感情にも蓋をしていたようだ。蓋が外れたとき、感情の波は上にも下にも振れ幅が大きくなり、全てがもっともっと、カラフルになっていく。
込み上げてくるときは、自分のことを話そうとしているときが多い。
まだ言葉になりきらない感情が、コップになみなみと注がれる水のように迫ってくる。そうして表面張力いっぱいになったとき、もう一言話そうとすると、あるいは周囲からなにか反応があると、ふっと溢れて泣き出してしまう。
一度溢れてしまえば、涙はお構いなしだ。ここは泣いてはいけないだろうと理解しているときでも、抑えきれずに唇が震え、目に涙がたまる。泣かないようにしているのに、泣いてしまう。
最近、表面張力の決壊は、頻度も勢いも増しているようだ。感情はなかなか手に負えない。
けれどそれはきっと、これまでは目を逸らしてきた自分の感情を見つめているのだろう。これまでは一人のときにしか向き合わなかった自分の内を、不器用なりに人に伝えようとしているのだろう。
言葉になりきらなくて不貞腐れたり、唸ったり、貧乏ゆすりをしたり、地団駄をふんだり。そういうこともある。3歳児と変わらない幼稚さだと思うこともある。でもそれは、私が感情の言葉を獲得し直す過程なのかもしれない。
30歳にもなって泣いてはいけない場面で泣くなんて、不格好だ。感情の言葉を獲得する、そんな幼少期にするであろうことをやり直すなんて、視界が遠くなる。
でもきっと、今それが起こっているのにはタイミングがあるのだ。環境があるのだ。
これまでのように逸らしてはぐらかすことなく、真剣になれることがある。伝えたいことがある。向き合おうと思う人がいる。泣いても大丈夫だと安心できる人たちがいる。だからこそ、表面張力の決壊が起こるのだ。だからこそ、感情を言葉にしようともがいている私がいるのだ。
不器用で不恰好。だけど今の私もつながりも、悪くない。
一人を決め込んで鈍感になろうとしているより、ずっといい。
きっと。
おかえり、3歳の私。
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