Vol.4 雨のち、晴れ


〈プロフィール〉
名前:麗香(29)
職業:大手テレビ局勤務 文化事業部 展覧会担当
住所:白金台(一人暮らし)


― 愛してる……か。

ついさっき、別れ際に修二に言われた言葉を思い出し、麗香はタクシーの中でため息をついた。

まだ火曜日なのに『会いたい』という修二からのメッセージを見て、麗香は、仕事を早めに切り上げ、彼の待つ六本木のバーに駆けつけたのだ。

数時間一緒に過ごし、別々の家に帰る。

― 彼が独身だったら…なんて、もう何百回思ったことだろう。

タクシーを降りて、白金台の自宅に着くやいなや、麗香は、仕事着にしているUNITED TOKYOのジャケットをソファに放り投げて、コップに入れた冷たいミネラルウォーターを一気に飲み干した。

2人の出会いは、4年前の2018年11月。

麗香が、束の間の休暇をとり、パリに一人旅をしたときのことだった。

お目当ては、パリ・フォトという世界的な写真の展示会。

写真家の叔父の影響や、仕事で写真展に携わることもあり、いつか見に行こうと決めていたのだ。麗香は、エッフェル塔やルーヴル美術館など有名な観光地には目もくれず、連日その展覧会を訪れた。

ダンスを踊る女性の写真の前で立ち止まっていた彼女に、修二が声をかけたのだ。

「昨日もこの写真の前にいらっしゃいましたね」

振り向くと、紺のセットアップに白いスニーカーを履きこなした男性が立っていた。

スラりと高い背、彼の落ち着いた声、爽やかな笑顔に本能的に惹きつけられたのを、麗香は今でも覚えている。

その夜、彼女は、修二から誘われ、セーヌ川の近くのレストランで再び落ち合った。

彼は、デザイン会社の社長で、8歳上。ときどき仕事でパリを訪れるそうだ。フランス語も女性のエスコートも完璧。初めて会ったというのに、仕事の話から趣味のアートの話まで、話題は尽きなかった。

指輪をしていない修二に「恋人はいますか?」と麗香が尋ねると「君だったら嬉しい」と返事が返ってきた。

異国の地での出会いがそうさせたのか、2人は陳腐な映画のように体を重ねたのだった。

しかし帰国後、予定を合わせて再会したとき、修二に妻と2歳になる息子がいることを打ち明けられた。

「もう会うことはできないね」

泣きながら伝えた麗香に対し、彼も泣きそうな顔で言った。

「妻が世間体を気にするタイプだから、子どもが大きくなるまで離婚できないんだ。でも、お互い愛情がないから、妻からは、僕が外でなにをしようとも、どうでもいいと言われている」

麗香は、修二以上に話題が豊富で、仕事に対し的確なアドバイスをくれ、スマートなエスコートをしてくれる男性を他に見つけることができなかった。

良心の呵責に苛まれ、別れ話をしたことは何度もある。

しかし、そのたびに「子どもが大きくなるまで待ってくれ」と彼は懇願する。麗香のほうも、修二といると居心地がよく、結局関係を続けて、ずるずると4年もの年月が経過してしまった。

日曜日の朝。

名古屋に住む麗香の姉からLINEが届いた。姪っ子の3歳の誕生日だったらしく、実家に住む両親を交えてパーティーをしている写真と共に。

― ナナちゃんも、3歳かぁ。大きくなったな…。

麗香は、ここ2年ほど地元に帰っていない。

コロナや仕事が多忙という理由をつけているが、本当は「そろそろ、結婚しないの?」と突っ込まれるのを避けているからだ。

― 既婚者の恋人がいるなんて、口が避けても両親には言えないし…。

朝からモヤモヤした気持ちになった麗香は、散歩するために外に出ることにした。

プラチナ通りにある小さな花屋に入り、白色のあじさいを買った。落ち込んだ時、部屋に花を飾るようにしている。花が部屋にあると、不思議と癒やされる。


「もしかして麗香!?」

花屋の帰り道、麗香に突然声をかけてきた人がいた。

「……けんちゃん?なんでこんなところにいるの?」

けんちゃんこと賢太郎とは、地元の高校時代の同級生で学習塾も同じだった。

進学校だったので、同級生のほとんどが有名大学に進学する環境のなか、賢太郎は、親を説得して、料理の専門学校に行くと決めた。

聞けば、彼はその後も料理の道に進み、国内外の修行を経て、先月から二つ星のレストランのスーシェフに引き抜かれ働き始めたようだ。

それを機に、白金台に引っ越してきたという。

「まさか、けんちゃんとご近所さんになるとはね。卒業式以来だから10年以上ぶり?」

「そうだよな。それにしても、麗香はすっかり東京の女性ってかんじだなぁ」

賢太郎は頭を掻きながら、ほんのり頬を赤らめて言った。

サッカー少年だった高校生のときより日焼けはしていないが、目の横の笑い皺がそのままで、麗香は安心した。

近々飲もうね、とLINEを交換して別れた。

― けんちゃん、元気そうでよかった。変わらず真っすぐな目だったなぁ…。

久々の友人との再会と、花屋で見つけたあじさいで、すっかり気分が良くなった麗香は、午後買い物に出かけることにした。


― 去年から買おうか悩んでたロエベのバスケット、とうとう買っちゃった!!

表参道の路面店で買い物を済ませ、深々とお辞儀をするスタッフの女性にお礼を伝えてショップを出ようとした瞬間のこと。

「パパありがとう!」

子どもの声が聞こえて、ふとそちらに視線を向けると、麗香は驚きのあまり固まった。

― 修二…!?

彼が子どもと手をつなぎながら、大きなキディランドの紙袋を提げて歩いている。

「パパ、僕の誕生日覚えてないと思ってた」

「忘れるわけないだろ?」

そんな会話が麗香の頭に響く。

― 嘘つき……。

今日、麗香は彼とドライブデートする予定だったが「仕事が入ったからリスケしよう」と、昨夜突然連絡が入ったのだ。

急に、子どもの誕生日を思い出したのかもしれない。

「…最低だ」

つぶやいた言葉が、ブーメランのように麗香の心に返ってきた。

― 不倫で傷つくなんて、自業自得だよね…。

それからどうやって自宅に着いたのか、麗香はあまり覚えていないかった。

罪悪感と修二の子どもとの笑顔が脳裏に張り付いて消えず、しばらくずっと泣いていた。

ふと、気づくと、外はすっかり暗くなっている。

その時、iPhoneが鳴った。

『よ!今何してる?今日はびっくりしたね』

賢太郎からのLINEだった。麗香は深呼吸をして返信を打つ。

『買い物し終わって、今家だよ、本当にびっくりだね!!』

『早速だけど、ちょっと飲みに行かない?』

『ごめん。顔ひどいから今日はだめ、笑』

すると賢太郎から電話がかかってきた。

「顔ひどいって、どうした?」

「うーんと、色々あって泣いてたの…」

賢太郎の声に安心したのか、修二のことをまったく知らない相手だからなのか、麗香は、つい正直に答えてしまう。

「大丈夫?今から行くよ。…って、女の子のところに押しかけるのも失礼か」

賢太郎の声を聞いたら、また涙が溢れてきてしまった麗香。

「……やっぱり行くよ。住所おくって!渡したいものあるからさ、それ渡したらすぐ帰るよ」

電話が切れてから、10分も経たずに賢太郎がやってきた。

「何があったかわかんないけど、これ飲んで元気だして」

玄関前で渡された紙袋には1本のワインが入っていた。

「フランスのワインなんだけどさっき会ったとき、ワイン好きって言ってたから。…じゃあ、また」

気を使ってすぐに帰ろうとする賢太郎を、麗香は呼び止める。

「ねぇ。…よかったら、一緒に飲まない?」

賢太郎は、驚いた顔をしたものの「お邪魔しまーす」と言って部屋に入ってきた。

そして、家にあったコルク抜きで、器用にワインの栓を抜き始めた。

「この『シャス・スプリーン』っていうワイン、俺がニースのレストランで修業してたとき、心折れてもう料理人やめようかって思って、厨房の陰で泣いてたら、レストランのマダムが飲ませてくれたワインで…。

“憂いを払う”っていう意味があるんだ。落ち込んだ気持ち吹っ飛ぶからさ、飲んでみてよ」

麗香は、彼の話を聞きながら、ワイングラスを用意する。

グラスに注がれた赤ワインは、黒々としていて、ドスンと重たい味わいを想像させる。

「そんな貴重なワイン、ありがとう」

乾杯をして、一口飲んでみる。

しっかりとした味わいの中にも、ヒノキの木の香りのように爽やかな風味がのどを駆け抜けた。

「……美味しい」

「麗香に何があったのか、言わなくてもいいけど。悩みが晴れればいいなって」

「…けんちゃん、会わない間にいい男になったね」

麗香が笑ってワインを飲みながら言うと、賢太郎は真面目な顔で言った。

「いつかまた落ち込んだ時に飲もうと思って、買っておいてよかったよ。…まさか、昔思いを伝えそびれた“初恋の人”と飲めるとは思わなかったな」

「……え?」

「じゃあ、そろそろ俺、帰るね」

賢太郎は、真っ赤な顔で、風のようなスピードで帰っていった。

― 今けんちゃん、最後何て…?

それからしばらく遠くを眺めていた麗香は、深い深呼吸をし、グラスの中の1杯を飲み干してiPhoneを手に取った。

『修二、今までありがとう。家族を大切にしてくださいね』

送信ボタンを押す手に迷いが生じ、10分以上経過した。そのとき、ふと賢太郎と飲んだワインボトルが目に入る。

― ちゃんと自分で憂いを払わなきゃ!

麗香は、自分にそう言い聞かせて、目をつぶりながらメッセージを送信した。その勢いで、修二をブロックし、彼にもらったアクセサリーやパリ・フォトのチケットなど、思い出の品をすべてゴミ箱へ投げ捨てた。

― こんなに簡単なことだったんだな。

麗香は、涙が乾いていることに気がつき、微笑む。

外を見ると、さっきまで雲で覆われていた月が、顔を出していた。

― 家族や友人…いや、自分自身に誇れないような憂い悩む人生は、もう終わりにしよう。

今夜は、綺麗な満月だった。

◆今宵の1本

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シャトー・シャス・スプリーン(Château Chasse-Spleen)
フランス ボルドー地方 メドック地区 ムーリス村

カベルネ・ソーヴィニヨン、メルロー、プティ・ヴェルド、カベルネ・フランのブレンドの赤ワイン。

フランス語で、「憂いを払う」という意味を持つこのシャトーは、小規模なシャトーの集まるムーリス村の中でも群を抜いて著名で高品質なワインを生み出す。

伝統的な製法にこだわり、熟成向きのキャラクターは、しっかりとしたタンニンの中にもブドウの活き活きとした果実味を感じさせる。どのタイミングで飲んでも、名前の通り気分が明るくなるような透き通った味わいで楽しませてくれるだろう。

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