Vol.9 もう手に入らないもの
〈プロフィール〉
名前:龍(30)
職業:事業資金融資専門会社 代表取締役
― ハチ公前で待ち合わせなんて、いつ振りだろう…。
金曜の17時すぎ。
七恵との待ち合わせの10分前に到着した僕は、若者で賑わう渋谷の街を眺めていた。
僕と彼女の出会いは、大学時代。
七恵は福岡、僕は東京という離れた大学ではあったが、青年国際交流事業のメンバーに選ばれ、大学2年生の夏、1ヶ月間カンボジアで生活を共にした仲間だ。
ずいぶん綺麗でプライドが高そうな子がいる、というのが七恵の第一印象だ。
しかし、何度かディスカッションを共にするうちに彼女のイメージは変わっていった。
自分の意見はしっかりと持ちつつ、国籍を越えて打ち解けられる人懐っこさや、気配りのできる一面を見て、僕は彼女に自然に惹かれた。
七恵も僕に対して、「真剣な話も、くだらない話もできる」と言い、出会って数日で僕らはすっかり仲良くなった。
そして、交流会が終わったあとも、年に数回ほど会う関係が10年ほど続いている。
お互いの住んでいる東京、福岡を訪問し数日間一緒に過ごす。といっても、色気ゼロの関係だ。
たとえ、付き合ったとしても遠距離になるし、お互いに男女の友情を壊したくないと考えていたのだと思う。
ただ、一度だけ、その友情が壊れかけた時がある。
それは、大学4年生の冬のこと。
僕は、友人と東京でクラウドファンディングの事業を立ち上げ、七恵は福岡の不動産会社に就職が決まった。
これからのお互いの前途を祝して東京で飲んだ夜。
いつものように数軒ハシゴし、そろそろ解散かなと思っていたとき、七恵がじっと僕の目を見て「帰りたくない」と言ったのだ。
その日、僕らは夜を共にした。
僕の中では軽い気持ちではなかった。彼女が“特別な存在”あるとはっきり認識していたから。
「きっと、僕らは遠距離でもうまくいくよ」
そう僕が伝えようとした瞬間、ベッドの上で七恵は声をひそめて泣いていたことに気づく。
僕がそっと肩に触れると、彼女は寝たふりをした。
取り返しのつかない重大なミスを犯してしまった気持ちになった僕は、眠れないまま朝を迎えた。
そんな僕に、彼女は明るい声で言った。
「ごめん。龍とはずっと友達でいたいから、昨日のことは笑い話にしよう」
そして僕らは、男女を超えた友情を築き、年に1、2回会う関係が続いた。
◆
そんなことを思い出していると「龍!」と呼ぶ声がした。
「七恵、1年ぶりだっけ?一瞬分からなかったよ、何、失恋でもした?」
出会った時からロングヘアだった七恵の髪の毛が、バッサリとショートヘアになっていたのだ。
「違うわよ!まあ、後でゆっくり話すわ」
僕は、予約したお店の方へ七恵を案内した。
『美味しいものは食べたいけれど、肩肘張らないで、ゆっくりできる場所がいい』
そんな七恵の希望に沿って、僕は渋谷のワインが美味しいレストランを予約した。
店に入り、僕らはグラスシャンパーニュで乾杯をする。
お互いの近況報告や、思い出話に花を咲かせたあと、赤ワインをオーダーした。
レバームースをつまみながら、彼女は少し悲しそうな表情をして本題を切り出した。
「あのね、私、結婚することにしたの」
七恵から、『報告があるから会いたい』と言われた時から、そんな予感はしていた。
「…おめでとう!で、なんでそんな浮かない顔をしてるの?幸せなことじゃないか」
「今までみたいに2人で会うことはもうできないと思って」
僕と七恵は男女の関係を超えた特別な存在で、いつだって会おうと思えば会える気がしていた。
でも、現実はそうではないと知ると、急に寂しさが押し寄せる。
「…そっか、そうだよね。幸せになれよ」
その時、七恵は、ショートヘアなのに、うなじから髪をかき分ける仕草をして、その後、照れ隠しに笑った。
「長年の癖って抜けないわ。実は、昨日ショートカットにしたから、まだ慣れていないの。ロングのつもりで髪を触ってしまうわ。記憶のある中では、人生最短よ」
「昨日切ったの?」
「なんていうか、一種のケジメかな」
赤ワインの香りを真剣に嗅ぐふりをして、彼女に次にかける言葉を探していた時だった。
その姿が、目に留まったのだろう。
突然、隣の席から、60代くらいの夫婦が話しかけてきた。
「もしよろしければ、赤ワインを一緒に飲みませんか?」
ワイン好きが集まる場所にいくと、こういったシチュエーションに出くわすことがたまにある。
しかし、僕は、その差し出されたワインボトルのエチケットを見て言葉を失った。
フランス、ブルゴーニュ地方の作り手、ルネ・アンジェルの『ヴォーヌ・ロマネ』。
ルネ・アンジェルのワインは、今、ロマネ・コンティなどを作るDRC社のワインよりも手に入りづらいともいわれている。
「こんな貴重なワイン、いいんですか?」
僕が答えると、その夫婦はニコニコと笑いながら言った。
「ええ、若い人たちに飲んでもらう方がワインも喜ぶでしょう」
ワインを頂いた僕らは、その素晴らしさに心を奪われた。
「こんなに上品な香りの、繊細で余韻の長いワインに、初めて出合いました。また、いつかこんな素晴らしいワインに出合えるのかな…」
七恵は、瞳をませながらつぶやく。
老夫婦は、ニコニコとしたまま答えない。
僕も「出合えるよ」と、簡単に答えられなかった。
その生産者のワインは、2004年のビンテージが最後で、もう作られることのないことを知っているからだ。
「では、僕らはここで」
そう言って、初老の夫婦は帰って行った。
22時すぎ。
僕らは、グラスの赤ワインを飲み干し解散をすることにした。
「お互い、幸せになろうね」
僕は、七恵と別れたあと、後ろを振り返らずに歩き始めた。
もしも振り返ったら、これから人妻になる女性に対して「昔から、ずっと好きだった」と叫んで、困らせてしまうだろうから。
◆
半年後。
もう会えないと思っていた彼女のことを、僕は思いがけず間接的に目にすることになった。
それは、「若者の介護の現状」というネットの連載記事だった。
そこには、七恵が大学4年生の頃から、若年性アルツハイマーを発症した母親の介護をしていた、という内容が書かれていた。
― そんなこと、七恵は一言も話をしていなかったのに…。
しかし、上昇志向が強かった彼女が、東京や海外に出ず、地元での就職を選択したという点で、合点がいく。
出会ったばかりのころ、彼女の両親が離婚していて、母親と二人暮らしだったという話は聞いたことがあった。
彼女は、母親の問題を1人で背負う覚悟だったのだろうか。
彼女は、東京で生きる僕の人生を考えて、簡単に「付き合おう」という言葉を発しなかったのだろうか。
今になって、あの時七恵が髪を短く切って「ケジメをつけた」と言っていた意味がわかったような気がした。
友情と恋愛の間で、中途半端だった僕との関係を断ち切るということを意味していたのだろう。
タラレバを言っても仕方がないが、僕がちゃんと想いを伝えていたら、困難を乗り越えて彼女と一緒にいる未来があったような気がする。
その瞬間、なぜか、七恵と最後に飲んだルネ・アンジェルの『ヴォーヌ・ロマネ』の余韻を鮮明に思い出した。
もう彼女との時間は、取り戻すことはできない。今では作られることのないルネ・アンジェルのワインのように。
でも、美しい記憶や素晴らしいワインの余韻はずっと残り続ける…。
七恵の不器用な決意を知って、より彼女が大切な存在になった気がした。
幸い、記事の最後の文章が僕の心を前向きにさせてくれる。
『今は、初めから介護の事情があることも知って、私を大切にしてくれる夫に出会ったことも幸せです』
七恵が僕と出会ったことを誇らしく思えるほど、いい男になろうと決意した。
僕が七恵を今日見つけたように、彼女が僕を遠くからでも見つけられるように。
僕はネット記事のタブをそっと閉じる。
深呼吸をすると、新しいビジネスの企画書を開いた。
◆今宵の1本
ドメーヌ ルネ・アンジェル ヴォーヌ・ロマネ
(Domaine Rene Engel /Vosne - Romanèe)
フランス ブルゴーニュ地方
ピノ・ノワール100%の赤ワイン。
ドメーヌの設立は1910年、ドメーヌ名にもなっているルネ・アンジェル氏はディジョン大学の教授も務めた人物だ。フランスでも優れたワインを作るドメーヌとしてたちまち有名になる。
1981年に、孫であるフィリップ・アンジェル氏がオーナーに就任。しかし、2005年に、フィリップ氏が心臓麻痺で突然帰らぬ人となり、2004年のビンテージを最後にドメーヌは惜しまれつつも消滅してしまった。
ドメーヌ廃業後は、そのわずかな在庫を巡り世界中で争奪戦が起き、近年は目にすることも難しくなってきている。
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