Vol.7 1本のフィルム


〈プロフィール〉
名前:愛(31)
職業:ファッション雑誌 編集者(育休中)
家族:息子の礼央(0歳10ヶ月)と、夫の悟(34)と3人暮らし
住所:港区南青山


礼央のMARLMARLのナイトウエアを「#marlmarl #新米ママ #港区ママ 」のハッシュタグを付けて、Instagramにアップした。

すると、すぐに“いいね”が付き『かわいい!』というコメントが入る。

わずかな外の世界との接触だ。

私の投稿は、この10ヶ月ですっかり子ども一色になった。

過去の投稿画面をスクロールすると、ファッションの投稿や話題のレストラン、海外出張時の写真など、独身を謳歌している画像が並んでいる。

― 私がママしてるなんてね。

私は、多忙を極めるファッション雑誌の編集者で、今は育児休暇をとっている。

ただでさえ授かり婚で、職場に迷惑をかけてしまった自覚はある。だから、妊娠が発覚した当初は、出産ギリギリまで働くつもりだった。

でも、妊娠20週のときに出血をし、切迫流産の危険性があるとのことで入院し、そのまま産休に入ってしまったのだ。

子どもができると、何事も予定通りにいかないということを思い知らされた出来事だった。

「ギャーーーーーー!」

警報装置が作動したような礼央の泣き声が、隣の部屋から聞こえる。

「…はいはい、礼央、今行くね」

同時にiPhoneの通知が鳴り、夫からの『今日も遅くなる』というメッセージが表示される。

3歳上の夫の悟は、大手テック企業の日本支社で働いていて、給料は良いが出張や残業も多い。だから、ほぼワンオペ状態だ。

寝かしつけを終えて、21時半過ぎに崩れるようにソファに腰を下ろした。

子どもの成長とともに、私の時間が削られていく。

生まれたばかりのときは、寝ている時間が多かったので、まだ余裕はあった。でも、動けるようになると目が離せなくなるし、遊び相手になったり、離乳食の準備をしたりと忙しくなる。

「保育園見つからないし、風邪ひきやすいし…職場に育休を半年延長する申請そろそろしなきゃ…」

そんなことを考えているうちに、意識はだんだん夢の中へ……。

現実へ引き戻されたのは、またも、礼央の警報器のような泣き声だった。

慌ててソファから飛び起きると、悟が礼央を抱き抱えて立っていた。


「ごめん、礼央のほっぺ触ったら起きちゃった」

「…もう。早くシャワー浴びてきて」

時計を見ると、すでに深夜1時。

礼央をあやしながらため息をつくと、床に落ちている紙が目に入った。

― TOHOシネマズ六本木…これって映画のチケット!?


「なんなのこれ」

悟の元へと詰め寄ると、バツが悪そうな顔で言った。

「あぁ、今日公開日だから、気になって1人で見に行った…」

私たちは、お互い映画好きということで、共通の知り合いが引き合わせてくれた。

もちろん、彼がこの監督が好きなことも知っている。だからって…。

「私がどんな思いで毎日過ごしているのか、わかってる?」

「ごめん、って。でも、たまには仕事の息抜きをさせてよ」

「ひどい。…私だって、息抜きしたいよ」

骨董通り沿いのマンションは、元々悟が住んでいて、私が子どもを産んでからも住み続けている。

十分な広さもあり、独身時代は夢のような場所だった。

近所を歩く母親たちはみな綺麗で、子どもを授かる前は、子育てと自分らしさの両立はさほど難しいことに思えなかった。

でも、いざ礼央が生まれると、雑誌に載っているママみたいになれない自分に落ち込む日々だった。

『住所:南青山』という響きも、いつの間にかキラキラとした輝きを失った。

― なんだか、疲れちゃったな。

なかなか寝つかない礼央を抱えながら、静まり返った表参道の夜道をベランダから眺めていた。

翌日。

少し遠出して、有栖川公園まで散歩をしにベビーカーを押していた時のこと。

「愛!」

振り返ると、そこにはなんと、元彼が立っている。

「拓海、何でここにいるの!?」

私たちは、大学時代から付き合っていた。新卒で商社に就職し、3年前、彼の九州転勤が決まった。

彼からはついてきてほしいと言われたが、仕事を辞めたくなかった私は断った。そして、結果的に、別れることになった。

「去年、東京に戻ってきたんだ。今日は、広尾にある取引先に立ち寄った帰りなんだけどさ…」

「…そう」

「かわいーな。この目はママ似だね?何ヶ月?」

くしゃっと笑い礼央に話しかける彼は、昔と変わっていない。

「愛、子どもが生まれたんだね。幸せそうでよかったよ…」

― 私、本当に幸せそうに見える?

何かが違えば、彼との未来もあったのかもしれない。

拓海との再会は、私の胸の中をかき乱した。

その日の夜、拓海からInstagramにDMが届いた。

『元気そうな愛に会えて嬉しかったよ!今度お茶でもしよう。レオくんも一緒に』

― 今さら何を言ってるんだか…。

あきれ半分、そんなお調子者なところも好きだったことを思い出す。

― そもそも、悟と付き合いはじめたのも、拓海を忘れるためだったしな…。

なんて返信しようか考えていると、悟が帰ってきて、慌ててホーム画面に切り替えた。

「あれ、今日は早いね。おかえり」

「ただいま。この匂いは、もしかしてシチュー?」

私がうなずくと、悟は鞄から嬉しそうに2本ワインを取り出した。ラベルには、映画のフィルムがデザインされている。

「これどうしたの?」

「別に…気になって買ったんだ。赤と白1本ずつあるけど、シチューなら白ワインにしようか。久しぶりに一緒に飲もうよ」

ふと、カレンダーを見ると、今日は7月4日。私たちが2年前付き合った日だったことを思い出す。

― もしかして悟、付き合った記念日なんて、覚えていたのかな?

彼が開けた白ワインは『フランシス・フォード・コッポラ ディレクターズカット シャルドネ』と書かれている。

「コッポラって、あのコッポラ?」

『ゴッドファーザー』や『地獄の黙示録』で有名な映画監督だ。コッポラが、ワイナリーも手がけているなんて知らなかった。

悟がワインを開け始めたので、私はシチューを皿によそい、温めたバゲットをテーブルに運んだ。

ワイングラスの中からは、ほのかなバニラの香りや、焼きたてのパンのような香ばしい香りが広がり、飲む前から、シチューと合うことが想像できる。

「乾杯」

私は、産後ほとんどお酒を口にしていなかったので、ゆっくりとお酒を飲むのは久しぶりだ。

ワインを口に運ぶと、濃厚な味わいの中にも、柑橘系の爽やかさが表れ、重いというよりは上品な印象を残す。

「ねぇ、もしも礼央が生まれてなくても、私たち、結婚してたと思う?」

ふと、疑問に思ったことを聞いてみる。

「うん、もちろん」

予想に反して、悟はすぐに返事をした。

「付き合っていたとき、コッポラの『ドラキュラ』見た日あったじゃん?あのとき、愛とこれからもずっと一緒にいるんだろうなって思ったよ」

「え、何それ、色気ない」

笑って返すと、悟は続けた。

「見終わった後、衣装デザインを担当した石岡瑛子について力説してる愛を見て、愛おしいなって」

別に照れる様子もなく話す悟を見て、私は思った。

そうだ私、この人のこういう素直なところが好きだ、と。

「赤のジンファンデルも、開けちゃう?」

私は悟の提案に乗る。

「ドライフルーツと、前もらったエポワスっていうウォッシュチーズがあるから出してみようか」

そう言って席を立った瞬間、礼央の泣き声が寝室から聞こえてきた。

「あ、俺、おんぶするよ。座って待ってて。礼央もミルクで乾杯して、俺たちに混ざりたいのかもね」

久しぶりのワインで心地よくアルコールがまわっている。

悟が寝室に向かっている間、InstagramのDMを開いて拓海へメッセージを送った。

『夫に悪いし、会えない。ごめんね』

そして、2人がリビングに入ってきた。

「ンマ、ママァ…」

「えっ!今、礼央、ママって言ったよね!?」

無数の選択と偶然や必然の上で成り立っている1本の映画のような人生は、美しい瞬間もあればそうではない瞬間もある。

決して派手なシーンではないけれど、今夜のことは、歳をとった時にふと思い出すのだろうな、と、そんな気がした。

◆今宵の1本

フランシス・フォード・コッポラ ディレクターズカットシリーズ
(Francis Ford Coppola Director's Cut)
アメリカ カリフォルニア州

文中で登場したワインは、シャルドネとジンファンデル。

『ゴッドファーザー』や『ドラキュラ』などの映画監督として有名なフランシス・フォード・コッポラは1975年にナパ・ヴァレーのワイン農園の一部を購入して以来、ワイン造りを始めた。

ディレクターズ・カットとは映画用語で、映画監督自身が撮影したフィルムを編集すること。

このワインのシリーズは、「ワイン醸造」と「映画製作」に偉大な芸術という共通点を見いだした、コッポラ監督自身がこだわり抜いた「作品」としてリリースされている。


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