Vol.6 セッション


〈プロフィール〉
名前:静香(28)
経歴:東京藝術大学 音楽学部 器楽科・ピアノ専攻卒
   大手イベント制作会社 広報部 副部長


「さっきのナンパ、完全に静香のことしか見てなかったよね」

ランチ休憩で入った『虎ノ門ARBOL』で、同期の美和が言った。

30分前、虎ノ門ヒルズの前で若いスーツ姿の男2人に声をかけられたのだ。

「そんなことないよ。仕事中に連絡先教えて、なんて言われても迷惑よね」

「もー、静香は嫉妬しちゃうくらい才色兼備だからな〜」

― 才色兼備、ね…。

これまで、何度も言われてきた言葉だ。

私の父は、地元の富山でも有名な資産家で、母は美人ピアニストとしてテレビなどにも出演していたような人。そのため、幼いころから、羨望や嫉妬の混じった視線を常に感じて生きてきた。

そして私は今、業界最大手のイベント制作会社で広報部の副部長をしている。だから、この年齢にしては、お給料をもらっているほうだと思う。

彼氏は、同期の営業部のエース、達也だ。彼からの猛アプローチを受けて、2年前から付き合っている。

でも、私はみんなが思ってるほど“恵まれた人生”ではない。

「ねぇ、静香、聞いてる?達也くんのことで、ちょっと伝えておきたいことがあるの…」

美和に話しかけられて、ハッとする。注文を終えたあと、思わずボーッとしていたようだ。

「どうしたの?」

「達也くんが、静香のこと、幸薄いから結婚は考えてないって…。でも、体の相性がいいから別れるのが惜しい、って話してたの聞いちゃって」

「…え?」

「私は、静香の“影”があるところも魅力だと思ってるんだよ!」

「達也、そんなこと言ってたの?」

達也がそんなふうに、思っていたことにショックを受ける。

それに…。

― ねぇ美和。自覚ないと思うけど、なんで嬉しそうに話すの?

彼女の言葉には、友情や心配という感情があまり感じられない。

入社したての頃、美和が達也のことをイケメンだと騒いでいたことを、ふと思い出す。

親切心という仮面を被り、私のことを無自覚で攻撃して、不満を発散しているのかもしれない。

その日の夜。

マンションで1人、左手を見つめながら、ため息をついた。

― もし、私が病気を発症しなければ…。

私は、日本の音大最高峰といわれる東京藝術大学のピアノ科に入学した。

しかし、大学3年生の秋ごろ、突然ジストニアと呼ばれる神経系の疾患を発症し、指が思うように動かなくなってしまったのだ。

卒業後の進路は、アメリカの大学院へ留学と決めていたのに、とても悔しかった。

今は、日常生活の大抵のことは問題なくできるようになった。でも、時折自分の意思に反して指が反ったり、震えたりしてしまう症状が残り、ピアニストとしては致命的だった。

だから、音楽家としての人生を諦め、一般の大学生に混じって就職活動を始めることにした。

そして運よく受かった企業は、多くの人からみたら憧れの有名企業かもしれない。

でも、幼い頃から音楽家を夢見ていた私にとっては、嬉しくない進路だった。

卒業してからの私は、すべてに投げやりだった。将来に対しても恋愛に対しても。

達也のことだって、愛しているかと言われると、正直わからない。ただ、彼といると、音楽のことを考えなくてすんだ。

彼とは、外に出かけたり食事にいくことはほとんどなく、もっぱら家でのデートだが、自分は“求められている”と安心していたことも事実だった。

だから、「体の関係だけ」と言った彼のことを責めることはできない。

「…幸薄い、か」

18歳で、大きな期待と自信を持って東京に来た。

でも、あれから10年経った今、東京に留まる理由を探すほうが難しい。

「地元に帰ろうかな…」

そうつぶやいた瞬間に、仕事用のスマホから着信音が鳴る。

電話に出ると、男性の声が聞こえてきた。

「もしもし。遅くに申し訳ありません。高幡静香さんの番号でお間違いないでしょうか?」

「はい、そうですが…」


変化


「あはは。うん、やっぱり静香だよな。俺だよ!馨。藝大作曲科の!」

「えっ、馨先輩!?」

彼は、1級上の先輩だった。

スラっと背の高く、音楽家というよりはスポーツマンのような爽やかな雰囲気のムードメーカーだった彼。

ピアノも堪能だった彼は、学生時代、ピアノ科にもよく出入りしていた。

雑談がわりに休み時間に連弾でセッションをしたこともある。

彼も、卒業後は少数派の就職の道を選んだ。

大手ゲーム会社に就職し、ゲーム音楽の作曲に携わって活躍しているという話は私の耳にも入ってきていた。

「去年の夏のパシフィコの音楽イベント、静香の会社が間に入ってたでしょ?うちもイベントできないかなと思っててさ。仲いい取引先の人が話してた、広報担当の人の名前聞いてまさかと思って電話しちゃったよ」

「えっ、ゲーム音楽のコンサートっていうことですよね。馨先輩と仕事できるかもしれないんですか?」

「明日担当から詳しく連絡あると思うけど、そういうこと!」

翌日から、11ヶ月にわたる怒涛の音楽イベントの準備が始まった。


― 1年後 ―

『ゲーム音楽の祭典!横浜公演大好評につき、全国8会場での追加公演決定…』

朝10時。

デスクで、私は書き上げたプレスリリースが配信されたことを確認して、安堵のため息をつく。

休憩中、LINEをチェックすると馨先輩からメッセージが入っていた。

『まずは横浜公演の成功、本当にありがとう。良かったら食事でも行かない?』

『ぜひ。昔みたいにお肉食べたいです、笑』

学生時代、みんなでよく上野のアメヤ横丁商店街にある焼肉へ行ったことを思い出しながら、返信を打つ。

「ここって…」

ディナーの約束の日、馨先輩が私を連れてきた場所は、『ウルフギャング・ステーキハウス シグニチャー』だった。

「私、こんな素敵な場所に連れてきてくれると思ってなくて…」

席につき、私がそう言うと彼は笑った。

「一緒に来たかったんだ。乾杯はビールでいいかな?」

目の前に美味しそうなお肉が運ばれてきた。

「静香、ワイン好き?」

馨先輩は、ワインリストを見てソムリエにオーダーする。

しばらくして運ばれてきたワインは、『オーパス・ワン』だった。

2人の男性の横顔が象徴的なワインのエチケット。

父が昔、何かの記念日にこのワインを大切に飲んでいたことを思い出した。

「こんな高価な…」

乾杯をして、飲むのをためらう私の言葉を遮るように彼は言った。

「1本のワインは交響曲、1杯のグラスはメロディーのようなもの…。そんな意味のあるワインだから、僕たちが飲むにはいいんじゃないかな?」

「…私はもう音楽はやっていませんよ」

「ピアノを弾いている静香も魅力的だった。でも、仕事に向き合う姿も素敵だったよ」

そう言いながら彼はグラスを傾け、ゆっくりスワリングさせながら続ける。

「このワイン、“フランスとアメリカ”それぞれを代表する2人の巨匠が手を組んで生まれたって知ってる?

お互い向き合ってきた畑や作り方も異なるけど『よいワインを作りたい』という思いが重なって、こんなふうに世界中で愛される奇跡のワインが誕生したんだ。

信念をもって生きている2人だからこそ、素晴らしい仕事ができたってことだよ」

私は、芳醇な香りを放つ赤ワインをひと口飲んだ。

お肉に合うくらいとても濃厚だが、単調にならない複雑な果実やスパイスの味わいが口いっぱいに広がる。

交響曲の壮大さをイメージさせる“作品番号1番”という意味をこのワインにつけたことに納得させられた。

「ああ、美味しい」

そう言うと、彼は少し黙ってから聞いた。

「ところで、今、彼氏はいるの?」

「半年前に別れました。いたら2人でご飯に来てませんよ」

「よかった。じゃあ、僕にチャンスがあるってことだ」

「えっ…?」

「僕と付き合ってほしい」

この1年同じイベントに関わったことで、彼が作曲した音楽の美しさや、細かいやり取りからも感じられる温かい人間性に触れ、惹かれていた。

でも、関係性を壊したくなく、自分の気持ちに蓋をしていた。

「…はい。嬉しいです」

彼は満面の笑みでガッツポーズをした。

「やった!あのさ、ゆっくりでいいから、また連弾しようよ」

「馨先輩となら、弾いてみたい」

久しぶりに、心からピアノが弾きたいと感じられたことが嬉しくて…。ワイングラスの中にうっかり涙が一滴、入ってしまう。

「大変!こんなに美味しいワインがしょっぱくなっちゃう」

私が言うと、彼はまた、嬉しそうに笑った。


◆今宵の1本

画像1

オーパス・ワン ロバート・モンダヴィ、フィリップ・ド・ロートシルト
(Opus One/Robert Mondavi, Philippe de Rothschild)
アメリカ カリフォルニア州 ノース・コースト ナパ・ヴァレー

カベルネ・ソーヴィニヨン主体で5種類のブドウ品種がブレンドされた濃厚な味わいの赤ワイン。

カリフォルニアワインの父、ロバート・モンダヴィ氏と、ボルドーの巨匠であるバロン・フィリップ・ロートシルト氏が理想のワインを生み出すべくタッグを組んだ。エチケットには2人の横顔が描かれている。

オーパスワンとは音楽用語で「作品番号1番」という意味。『1本のワインは交響曲、1杯のグラスワインはメロディーのようなものだ』という考えに基づいて名付けられた。

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