Vol.5 快楽主義


〈プロフィール〉
名前:夏帆(28)
経歴:人材紹介会社 システムエンジニア
住所:駒沢公園付近(一人暮らし)


「夏帆は学歴もないし、大した仕事もしてないんだから、せめて彼氏に嫌われないように愛想良くしてなさいね」

私の言葉を待たずに、一方的に電話が切れた。

長野に住む母は、私が仕事で疲れている日にかぎって電話してくる。

今日は、営業部のミスが発覚し残業に付き合わされ22時まで会社にいた。家について、ゆっくり休もう…と一息ついた矢先に電話がかかってきた。

でも、たとえ小言を言われても、母から連絡が来るのは、嬉しい一面もある。

私は、兄が進学した慶應義塾大学に落ち、逃げるようにして東京のDランク大学に進学した。

それ以来、学歴至上主義の母から、まともに口をきいてもらえずにいたのだ。

電話が頻繁にくるようになったのは、最近のこと。

2ヶ月前の母の誕生日に電話したとき、最近私に恋人ができたという報告をしたからだ。

彼とはマッチングアプリで出会った。

東京大学出身の大手総合化学メーカーで研究員をしている、5歳上の正輝さん。

母は、私のような落ちこぼれ人生の逆転方法は、エリートと結婚するしかないとでも思っているのだろう。

― はぁ。なんだか疲れた~。

仕事や母親に対するストレスを、ビールと一緒に飲み込む。

気を取り直し、おつまみを作ろうと、ほろ酔いでキッチンに向かったとき…。

「いった~!」

ハンガーラックの脚につまずき、思わず支えにしたラックごと壁に激突してしまったのだ。

かかっていた服やバッグも辺りに散らばる。

転んだ衝撃で頭をぶつけてしまったので、おでこに触れると少し膨れている。

― 私って、ほんとイケてない…。

翌朝、私が出社をしようと部屋を出た瞬間に「昨日はすみません」という声が聞こえてきた。

振り向くと、隣の部屋に住む大学生くらい男の子がゴミ袋を持って立っている。

状況が飲み込めず、ポカンとしてしまう。

「昨日、大音量で音楽流しちゃって…うるさかったですよね…気をつけます」

確かに、洋楽は聞こえたが、気になるほどではなかった。

― もしかして、昨日壁に激突したとき、うるさいから壁を殴ったと思われた!?

「いや、違うんです……」

そう言いかけると、彼は腰くらいまで深く頭を下げて謝り、ゴミ捨て場へ去っていった。

― なんだか、悪いことしたかな…。まぁいいや、今日の夜は正輝さんとのデートだから、早く出社して仕事終わらせよう!

私は、急ぎ足で駅へ向かった。


「遅れてごめんなさい!」

私は、表参道にあるイタリアンレストランに駆け込んだ。

今日も残業があり、正輝さんとの待ち合わせに15分ほど遅れてしまったのだ。

「大丈夫だよ。でも残業?時間内に仕事を終わらせるのも能力だよね」

「そうですよね…」

正輝さんとは、付き合って2ヶ月半経つが、未だに敬語で会話をしている。だからか、どこか上司と部下の会話のようになってしまうときがある。

「そういえば昨日、家で転んで、頭ぶつけちゃったんです」

私がおでこを指差し、笑いながら言うと彼も笑う。

― よかった、雰囲気和んで。

「夏帆ちゃんみたいに、女の子はちょっとバカなほうが可愛いのかもね。僕なんて、新しいプロジェクトを任されて、失敗はできない状況だよ」

彼の言葉に棘を感じたが、気にしないように目の前の料理を味わうことに集中する。

― このカルパッチョ美味しい!

その横で正輝さんが、ワインリストを見ながらワインを選んでいる。

「ねぇ、DOCGバローロって知ってる?」

私が首を振ると、丁寧に説明をしてくれる。

「ワインってね、教養だからある程度は覚えておいたほうがいいと思うよ。ネッビオーロっていうブドウ品種で………」

2、3分ウンチクが続き知識量に感心したが、あまり頭に入ってこなかった。

デザートまで食べ終えると、正輝さんがお会計を済ませてくれた。

「正輝さん、今日はこれからどうしますか?」

「明日は、朝からママと約束があるから、帰るね」

― また、ママか…。

レストランを出ると、私は表参道から下り電車に乗り、正輝さんは実家のある清澄白河へ帰っていった。

金曜日のデートにしては、早すぎる解散だ。

正輝さんは、いつも私より“ママ”を優先する。

付き合って初めてのデートの日も同じような理由で、早く解散したことを思い出した。

自宅のマンションに着いて、エレベーターに乗り込む。エレベーターの揺れと酔いで、頭がふわふわしながら、ふと疑問が浮かんだ。

― 正輝さんと一緒にいて、私幸せなのかな?

「あの、降りないんですか?」

気がつくと、エレベーターのドアが開いていて、目の前に今朝会った男の子がギターケースを背負って立っている。

「わ、すみません、もう5階か…」

慌ててエレベーターを降りると、彼が笑いながら乗り込んだ。

― 大学生かな?こんな時間に楽器持って出かけるなんて、気ままでいいなぁ。

― 翌日 ―

お昼ごろ、近所の駒沢公園まで散歩しに出かけた。

「あーあ、幸せになりたい!」

ベンチに腰掛けて、伸びをしながらつぶやいた。

「僕もです」

声がしたので驚いて後ろを振り返ると、隣の部屋に住む男の子が切り株の上に座っている。

さらによく見ると、プラスチックカップで赤ワインのようなものを飲みながら、ギターを脇に置き楽譜に書き込みをしている。

「よく会いますね!あ、まだ、コップあるんで、お姉さんも良かったらワイン飲みますか?」

― 君子危うきに近寄らず…。よね。

理由をつけて、その場を立ち去ろうと考えていたとき……。

「今の時期は、このハクウンボクが綺麗ですよね」

「ハクウンボク?」

彼が、目線の先にあった名前も知らなかった白い花を指差すので、つい見入ってしまう。花の存在を認識した瞬間、優しい香りが私を包んだ気がした。

「壮大、愛の旅、朗らかな人。花言葉もなんかいいですし」

「へぇ、よく知ってるね」

派手な見た目に反して、花言葉を言う彼に思わず気を許してしまう。そして、コップに注がれたワインをつい手にとった。

ワインをこんなふうに外で飲むことはなかったから、ためらってしまう。

でも、いざ口に運んでみると、ワインが喉を駆け抜け、優しい旨味がゆっくりと広がり、美味しさに驚く。

「僕、レイっていいます~」

彼は24歳で、今は友人と立ち上げた音響アプリの会社で収益を得ていることや、その合間を縫って音楽活動をしていることを話し始めた。

「レイくんは、自由に生きていて、うらやましいわ」

彼は「そうですか?」と笑って、続ける。

「僕が早稲田大学を中退した時、親からは勘当されかけましたけどね」

「えっ!早稲田に入ったのに、確かにもったいないかも…」

思わず私は、大学に落ちて、学歴至上主義の親から冷たくされた話をしてしまう。

「この大学出たら幸せとかって、窮屈じゃありません?」

彼の一言が、胸に突き刺さる。

「このワイン『エピキュリアン』といって『快楽主義者』って意味があるんです」

見せてくれたエチケットには、一見わかりづらいデザインだが、裸体の女性がたくさん書かれていた。

「“快楽主義”って、好き勝手欲望のまま生きるイメージですけど、“自分なりの幸せを見つけること”だと、僕は思うんです」

私は木漏れ日のなかで、ワインを味わいながら彼の話を聞く。

「このワインの作り手は、もともと洞窟探検家だったんです。

でもある日、洞窟の中で偶然出会った醸造家の人間性に強く惹かれたみたいで。

僕の突き詰めたい生き方はこれだ!って、即座に弟子入りしてワインを作り始めたみたいです。

僕も自分の幸せを追求した生き方をできればなって、いつも思っています」

レイが話す横で、私はワインを飲みながら自分の気持ちを整理していた。

母が、私に優秀な恋人ができたことで、初めて認めてくれたような気がして嬉しかったこと。

だから、本当は正輝さんと過ごす時間が楽しくないのに、自分の気持ちを無視していたこと。

仕事だって、ちゃんとやりがいを感じていることも。

― 私も、自分の人生を生きよう。

「レイくん、このワインすごく美味しいね」

しみじみとそう言うと、彼が微笑んだ。

◆今宵の1本

画像1

グレゴリー・ギヨーム レピキュリアン
(Gregory Guillaume/L'épicurien)

フランス 南ローヌ河右岸 アルデッシュ地方

グルナッシュ100%の赤ワイン。

作り手であるグレゴリーは、もともと洞窟探検家だった。

しかし、ある日ジェローム・ジュレというワイン醸造家に出会い、彼の人間的な魅力に惹かれ、ワイン造りを始める。

「エピキュリアン」は快楽主義者という意味。

軽く爽快な喉越しに、摘みたてのチェリーをかじったような甘酸っぱい果実味が特徴的。

フレッシュな味わいが、飲む人を明るい気分にさせてくれる。

仲間と集まって、太陽の下で気軽に楽しむのにお勧めのナチュラルワインだ。


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