Vol.1 孤独な男女に贈るシャンパーニュ

〈プロフィール〉
名前:山下悟(36歳)
職業:上場企業の役員&不動産投資家(IT関連で起業し、5年前にバイアウト)
住所:赤坂


「悟さん、さすがですね。予約が取りにくい人気店や、会員制のワインバーに連れてきてくれるなんて」

金曜22時。西麻布の交差点近くのワインバー。

マドカはうっとりとした目つきで悟を見つめながら、丈の短いワンピースからのぞく脚を何度も組み替え、長い髪をかきあげながら言う。

― この女も“予約の取れない”や“会員制”という言葉に弱いんだな。

これまで出会った女性と同じように、マドカもまた、自分のことをお金でしか見ていないことを、悟は会話の端々で感じていた。

彼女は28歳で、大手不動産会社の社長秘書として働いている。その傍ら、フード・インスタグラマーとして活動し、10万人のフォロワーがいる。

といっても、パトロンのような男性たちと訪れる有名店の情報を、SNSで更新しているだけなのだが。

彼女とは、不動産のイベントで知り合い、デートするのは今日で2度目だ。

1軒目は、四谷三丁目にある会員制の和食料理店を訪れた。

旬の素材を生かした割烹料理で彼女を上機嫌にさせたあと、タクシーで悟のいきつけである会員制ワインバーにやってきたのだ。

悟は、マドカの言葉に曖昧な返事をし、マスターに声をかける。

「この2008年のニュイ・サン・ジョルジュは、今飲んで楽しむには、香りも味のバランスも良く、ワインのポテンシャルが発揮されてますね」

マスターが注いでくれたワインを、悟がゆっくり味わっている横で、マドカはボトルとワイングラスを様々な角度に動かしながら、写真に映える角度を探し求めている。

満足する写真が撮れたのか、マドカはワインを一気に飲み干した。

― ブドウジュースのようにワインを飲まないでほしいな。

フード・インスタグラマーを名乗る彼女だが、実は数千円のワインと数十万円するワインの違いはわからないのかもしれない、と悟は思う。

そんなことを考えていると、マドカが不思議そうに悟の顔をのぞき込む。

その瞬間、彼女の強すぎる香水が圭の鼻の奥を刺激する。

― 香水がワインの香りを邪魔しているな…。

ボトルが空になった頃、時計の針は12時ちょうどを指していたので、悟はお会計を頼んで店を出た。

帰り際、悟はタクシーを止め、マドカを先に帰らせようとした。すると、彼女は悟の袖をつかみながら、潤んだ瞳で言った。

「もう少し一緒にいたいです」

しかし悟は、タクシー代を渡し彼女を帰らせた。

前回ほんの数時間だけ会った時、マドカが言った。

「ワインって、他のお酒よりも、飲むとお互いの本心を分かり合える気がするんです。だから、次はワインを飲みたいな」

その言葉に、悟は何かを期待してしまったのだろう。

いつも通り、割り切った関係で夜を共にすることもできたが、今日はそうしなかった。

金曜の夜、美女と食事をしたというのに、なぜか仕事で重大な決断を迫られる時以上の疲れがたまっていた。

― 恋愛なんて、わずらわしいだけだ。

尊敬している経営者の先輩に言われた「経営者は孤独である」という言葉が、悟の頭をよぎった。


翌日の土曜日。悟は売買する不動産を視察するため、中央区の再開発エリアを訪れる。

勝どき駅近くに、タクシーで降り立った瞬間、後ろから声をかけられた。

「おい!山下だよな?久しぶり!!」

振り返ると、早稲田大学時代の遊び仲間が立っていた。

「おお、森川!」

後ろに、小柄で清楚な雰囲気の女性が立っていたので会釈をする。

聞けば、去年彼は結婚し、このあたりに住んでいて、もうすぐ子どもが生まれるとのこと。

森川が悟に近づいてきて、小声で質問をした。

「で、山下はどうなの?実は昔、銀座でお前と黒髪長身の美人が歩いてる姿、見たことあるんだぜ。お前のことだから、相変わらずモテるんだろ?」

悟はその黒髪長身美人が全く思い出せなかったので、適当に愛想笑いをした。

大学時代はもちろん大手保険会社に勤めるようになってからも、女遊びが激しかった彼が結婚とは、と悟は驚く。

― 俺もいつか結婚して、子どもを作ったりするのかな…。

なぜか、森川とその妻の自然な笑顔が、悟の胸を苦しくさせた。

出会い

その夜、悟はまた、西麻布の行きつけのバーを訪れた。

珍しく女性を連れず1人で。

悟が今日のグラスワインは何が開いているのかと店内を見渡すと、隣に座っていた女性の姿が目に入ってきた。

この界隈に多い、香水とボディラインを美しく見せる服を纏っている女性や、鋭い眼光を持つキャリアウーマン。彼女は、そのような“美しく着飾った女性たち”とは違っていた。

彼女は、ゆったりとした白いワンピースを着て、長い髪をキュッとポニーテールに結び、化粧っ気もない。

ただ、大きな目を不思議なくらいキラキラと輝かせ、慣れない様子でカウンターの椅子に腰掛けている。

悟が、この女は何者だろうかと推測をしている時、バーのマスターが彼女に質問を投げかけた。

「ユリさん、その創作意欲は、どこから湧き上がるんですか?」

質問に対しユリという女性は、こう答える。

「うーん、孤独からかもしれません。孤独が私のエネルギー源かな」

悟がふと目線をバーの壁に移すと、見慣れない絵があった。

「悟さん、その絵はこちらの女性が描かれたんですよ」とマスターが圭に説明する。

マスターが絵を購入してくれたお礼に、彼女は、バーに顔を出したようだ。

壁には、美しい海をモチーフにした油絵が飾ってある。どこかはかなげなのに、心を揺さぶられる強さがある絵だった。

「素敵な絵ですね。孤独がエネルギーなんですか?」

社交辞令ではなく、純粋に彼女の絵に興味を持って悟は尋ねた。

「ええ…」

そう言ってこちら向いた彼女の瞳に、悟は吸い込まれそうになった。

「私は、幼い頃に両親が離婚していて。私は父親についていったんです。経済的に何の不自由もなかったことには感謝はしています。

でも、いつもどこか孤独でした。その孤独を埋めるようにずっと絵を描いていたんです」

彼女は続けた。

「と言っても、本格的にこういった油絵を描き始めたのはここ2年くらい。普段は、一般企業で働いています。

運良く知り合いのギャラリーで、個展を開くことができるようになりましたが、まだ私は会社員ですし、アーティストと言っていいのかわからないくらいです」

圭は、話を聞きながら自然と彼女の言葉に共感していた。

― 孤独といえば、俺も同じだな。

責任のある立場にある悟はいつも、感情を伴わず、即座に利益を優先した選択が求められる。

そんな自身に嫌気がさし、美しい女性と食事をし、ワインを飲むがいつも満たされなかった。

そして、また悟は壁に飾ってある美しい絵に視線を移す。

絵が訴える孤独な感情に、悟の心が動いた…。

「あなたは本物のアーティストだと思います」

悟はそう言うと、マスターにシャンパーニュの「サロン」をオーダーをした。

サロンの別名は「孤高のシャンパーニュ」。

白ブドウだけでつくられたシャンパーニュは繊細で、凛々しく、唯一無二の存在感がある。

「素晴らしい絵を見たお礼です。よかったら一緒に飲みませんか?

悟と彼女のお互いの人生の中で、コンプレックスであり、原動力でもある「孤独感」を分かち合うのに、サロンがピッタリとはまったのだろう。

会話は弾み、気がついたらボトルは空いていた。

「悟さんは、温かい方ですね」

彼女が、独り言のようにささやく。

― 温かい……?俺が?

悟は人にそんなふうに言われるのは初めてだったので、反応に困っていた。

しかし、悟の返事を待たずに、彼女が突然「今日は、本当にありがとうございます」とお礼を言って店を飛び出してしまったのだ。

圭は、その勢いに呆気に取られる。

「悟さんが置いてけぼりとは珍しい」

マスターの軽口に、悟も思わず笑ってしまう。

悟は彼女の座っていた席から、まだ温もりを感じていた。

数ヶ月後。

ユリとの再会を心のどこかで期待しながら、悟が1人でバーに訪れたある日のこと。

変わらずに美しい海の絵を眺めていると、突然マスターが彼女から預かったというハガキを渡してきた。

表面には、彼女の描いた海の泡のようなモチーフの絵。裏面には、ギャラリーの住所と彼女からの手書きのメッセージが書かれていた。

あの日、突然帰宅した無礼を詫びる言葉と、「サロン」に感化され、衝動的に絵を描きたくなり帰ったこと。そして、その絵が銀座の小さなギャラリーで、展示されることになったという内容が綴られていた。

個展は、銀座で2週間後に開催されるようだ。

個展の初日の土曜日。

悟は、高鳴る気持ちに気づかないふりをして、大きすぎる花束を抱えてタクシーに乗り込んでいた。

不器用な男を乗せて、タクシーは銀座の街へと走り出す。

この感情が、悟が忘れていた恋心に近いものだということに、彼はまだ気づいていなかった。

◆今宵の1本

画像1

Champagne Salon-シャンパーニュ・サロン

フランス シャンパーニュ地方 ル・メニル・シュル・オジェ村

シャルドネのみを使用したブラン・ド・ブランのシャンパーニュ。

優良なブドウが育った年のみしか生産を許さないうえに、非常に長い時間を熟成にかける。

徹底したクオリティーの追求、追随を許さない唯一無二の美しき味わい。そのすべてが「孤高のシャンパーニュ」と言われる所以である。

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