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着物を普段着にして1年が過ぎた。

 2020年10月頃、書籍『女装して、一年間暮らしてみました』(クリスチャン=ザイデル著)を読んだ。妻もいる男性が自分の意志で女装や女性としての生活を始め、自分が変わり・周囲が変わり・関係性のとらえ方も変わっていった、という内容が興味深く、自分も試してみたくなった。だが、さすがに同じことをするのは色々と手間やハードルが高すぎるので、和装をしてみることにした。そして「人生で初めて、普段着を着物で過ごした1年」である2021年を終えて、和装の開始から今の想いまでをまとめておこうと思う。

開始~1週間で感じたこと

 まずは普段使いができて洗濯も簡単な着物が必要である。ネットで探すと今や6千円程度でデニム生地の着物が買えてしまうことを知る。ユニクロで上下揃えるのと大差ない。帯も似たような価格帯だ。これ幸いと、着物を2色・リバーシブルで使える帯を2本購入してスタートする。

 僕の普段の生活圏はさほど広くはないが、渋谷の街中であるために人通りは多い。オフィスに行けば席もまばらに出勤している同僚にも会うし、いつも通うコンビニやスーパーの店員さんは見慣れた顔だ。そんな中に不慣れな着物姿で「飛び込んでいく」のはやはりドキドキする。

 通勤中は行き交う人にジロジロ見られている気がしながら、オフィスへ到着する。着物姿の僕に驚いた同僚たちは「今日は何かイベントでもあるのか?」と声をかけてくる。僕はエンジニアなので、その恰好のままデスクに座ってモニターとにらめっこしながらパソコンのキーボードを叩く。その姿も違和感があり珍しいのか、普段はあまり話さない同僚も「素敵ですね」と声をかけてきてくれたりする。こちらは照れくさいやら恥ずかしいやらだが、2,3日後にはこちらが拍子抜けするほどすべてのやり取りが平常運転に戻る。人は「変化した時の違和感」には敏感だが、同じ状況が続けばすぐに慣れてしまうのである。

 その週末には少し時間をかけて渋谷の街中を着物で歩いてみた。両足を大きく広げられず、いつもの距離が2-3割増しで長く感じるうえ、走ったりもしにくい。とはいえ、渋谷駅前のビル群を眺めながら着物で歩き回るというのは、「してやったり」というような何とも言えない高揚感がある。スクランブル交差点を渡ると、何人かがチラチラとこちらを見てくる。周囲からは浮いているが決して非難はされず、むしろ好奇と憧れが混じった視線を浴びるのは楽しい体験である。
 人は自然と自分の同類を探すようになるからなのか、渋谷の街中でもちらほら着物姿の人がいることにふと気づく。もちろん今までもそういった人達は居ただろう。でも過去に渋谷で着物姿の人を見かけた記憶が無い。眼には入っていても、さっぱり気に留めなかったということだ。装いが変わるだけで、周囲の見え方も変わるものだと感じる。

装いのチューニング

 着物でしばらく過ごしているうちに、実生活で不便な面が出てくるので色々とチューニングをする。

 まず足元である。前述の通り着物にしている時点である種の歩きにくさは避けられないが、加えて足袋(たび)と草履(ぞうり)ではさすがに不便が過ぎる。雨の時は濡れと汚れでさらに困る。そこで、足元は今まで通りの靴と靴下にする。

 続いては帯の結び方だ。男性の帯のスタンダードな結び方に「貝の口」というものがある。その名の通り、二枚貝が閉じたような形のこぶし大の結び目を作って結ぶ。比較的簡単にできて見栄えも良いが、このままで座り仕事をしようとすると椅子の背もたれが使えない。腰に結び目がぐりぐりと当たって痛いのだ。そこで「片ばさみ」というやり方を採用する。これは帯を結ばずに、交差させた帯を挟んで止めるため腰の部分が平らになる。着ているうちに帯が緩んできた時にはすぐに締め直すこともできる。着物で椅子に座ることが多い場合に最適解といえよう。

 そして肌着である。本来であれば下着の上に襦袢(じゅばん)と呼ばれる肌着をつける。しかし、長襦袢ともなるとほぼ着物と同じ形状であり、足回りの自由度が更に奪われる。短めの半襦袢であればTシャツと短パンという感じになるが、これも襦袢を紐で縛るため手間はかかり、紐による胴の締め付け度も増す。結果として、VネックのTシャツにハーフパンツの状態が僕の肌着の基本パターンである。寒い時は、上には長袖の肌着や半襦袢、下にはメンズタイツなどを加えれば対応できる。

着物=楽である

 こうして着物を毎日着ていると「大変そう」と言われるが、僕の実体験からするとこれはまるっきり逆である。普段使いの中で感じる着物のイメージは1文字で書けば『楽』なのだ。

 まず、着るのが本当に楽だ。これは男性着物でしかもデニムものだということが大きいが、それを加味してもあえて声高に主張したい。着物は、要するに「1枚の全身大の布」なので、自分を包むように重ねて帯を締めるだけである。もちろん、初めのうちは身体と布の位置調整や帯の締め方などで手間取ったりもするが、慣れてくれば「パサッとまとって、キュっとしめる」だけで装着完了だ。

 また、もう少し違った面からも着物は「楽」な点が色々とある。例えば、洋服のように上下や全身の組み合わせのパターンに悩まなくて良い。それでいて単に着ているだけで個性にもなる。着物をアイコンとして印象づけることができ、「ああ、あのいつも着物の人ね」と楽に覚えてもらえる。そして、着ている間も楽なのだ。着物は腰で着るため、首や肩への負担が少ない。かつ、シルエットがなで肩になるため、自然と気持ちが穏やかで落ち着く効果も感じている。それに、僕の豊かな下っ腹を洋服が支えようとするとボタンがはち切れんばかりの痛ましい状況になり自己肯定感も下がりがちだが、着物は全てを包み込んで貫禄に変えてくれる。よって身体的にも精神的にも、着物を着ていると楽なのである。

 もう一つ付け加えるならば、モノを持ち歩くのがとても楽だ。大きな袖にはちょっとした紙やペンだけでなく、文庫本なども苦も無く入る。懐にはスマホや財布はもちろん小型のノートパソコンを入れて持ち歩くことだってできる。この4次元ポケット感が最高なのだ。近所で出かけるくらいなら荷物などいらず、手ぶらで済む。特に懐の安定感は抜群で、入れたモノがすぐ目の届く所にあってその接触を常に肌で感じられる安心感がある。「懐中」の心強さとでも言おうか。カンガルーの袋というのはこんな感じかもしれないと思うと、有袋類にでもなった気分だ。

自分が徐々に「変身」している感覚

 上記のようにして1年強を過ごし、自分に対して起きている変化を実感している。和装だと、鳥の翼のように手に垂れている大きな袖が周囲の邪魔にならないかや、歩きにくさのある足回りなどをしばしば気にする。そのせいかリアルな意味での視野が広がり、つられて意識面での視野も広がったように思う。前述の着物の身体・精神効用もあってか、鏡を見ると以前よりも肩ひじ張らないゆったりした佇まいになっているのを我ながら感じる。有袋類の例えも含め、和装によって徐々に心身が「変身」していっているかのようである。

 ザイデル氏は自らの女装生活に1年間で「満足」し終止符を打ったが、僕は今後も和装を続けていく。着物がきちんと身体に馴染んだその先の自分を見てみたいのである。


 

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