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雑記


"デジタルデトックス"なるものをやってみた。
ただ、今時完全にネット世界(ニュースや連絡手段)を自身から断絶することは逆にストレスになるので、最低限の繋がりは残した。あと音楽を手放すことは普通に無理なので、聴覚受容はセーフという事にした。じゃあラジオもセーフか。"なんちゃってデジデト"だ。

いくつかの旅行が続いて、スマホを触る時間が極端に減ったのがきっかけだ。天涯の空気と現実の確かな手触りが自然とそうさせた。

日本の約8倍という紫外線を含むマクタン島の陽射しは、容赦なく僕の身体を焼き尽くす。言語の壁、壮観な大自然、嘘みたいな交通環境は、現実を忘れさせるには充分だった。いや、むしろこれが現実なのであり、見栄や虚勢に塗れた普段の自分の姿が実像とは甚だ言い難い。

海外の、なんでもかんでもすぐ歌い踊り出して周囲の人を巻き込んでいくあの文化が好きだ。その時その場を楽しむということにめちゃくちゃ真剣だから。写真や動画に残そうだとか、あとで誰かに話そうだとか、そういうことを置き去りにする勢いで手を取ってくる。見ず知らずの人達がその瞬間だけ和に馴染んでいく。下手糞な踊りを、ありのままの自分を、その世界は受け入れてくれる。

僕はスーツがあまり好きでは無い。浅い股上や襟元の窮屈さにはとてもじゃないが耐えられない。インターネット上での自分は、まるでスーツを着ているようだ。やりたくてこんなフォーマルな格好をしているんじゃない。本当はジャージにサンダルでラフに出歩きたい。でも、気がつくと心のどこかでネクタイを締めかけている。上手に締められないけれども。

無論、何を着ていようが自分の内から自然に出てくる言葉であることに変わりは無い。それでも、他者の視線を意識したフィルターは無意識下に存在し、顔が見えなくとも繋がってくれている人達へ、多少なりとも脛に傷持つ思いは塵のように積もっていく。

皆が皆カジュアルに自己を保てている訳でも無ければ、フォーマルが心地良い人もいる。SNS上にも紫外線は確かに存在し、下手にビーサンを履くと、セブでの僕のように足に火傷を負ってしまう。歩く力を失えば、本来の素敵な景色すら見ることができない。炎上とはそういうものなのだろう。

そもそもは、そういうアレコレに気づかない阿呆でいれることが重要なのだ。阿呆ってマジで良い意味ね。浜辺で遊んでいる時、何も考えずに海に飛び込める弩級の阿呆こそ、人生の勝者だ。石段に座って笑いながらそれを眺めるだけの僕達は、きっと何処に行っても踊りの手を取ることはできない。

それでも僕達は、石段で精一杯戦わなくてはならない。ジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを緩め、砂遊びくらいは出来るようにならなくては。その先に広がる大海はもしかすると、この上なく美しいのかもしれない。

パンダノン島の海、綺麗すぎて草


帰国後、無性にとある小説を読みたくなった。
伊坂幸太郎『砂漠』に「人間にとって最大の贅沢とは、人間関係における贅沢のことである」という考え方がある。これは、構想元のサン=テグジュペリ『人間の土地』の中の一節である。西嶋こそ寸分の迷いも無く海に飛び込める阿呆であり、北村は間違いなく石段に座るはずだ。主人公である北村を限りなく阿呆に近づけたのは、サン=テグジュペリのいう"贅沢な人間関係"であり、本作はそれが伝染することを証明した救いある作品だ。

"なんちゃってデジデト"を経た僕は、間も無くスーツを身に纏って砂漠に出ることになる。果てしなく続く乾き切った大地に雪を降らせるために、僕はスーツを着た阿呆になりたい。そんな『プラダを着た悪魔』みたいに言われても困るだろうが、そうなのだ。これからの windme__ はジャージの上にスーツを着ることになる……なんてことはまるでない、はずだ。


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