【ザ・クロック・スタプト・ネヴァー・トゥ・ゴー・アゲイン】
1
パシャパシャ。肩を濡らす重金属酸性雨。パーカー紐の金具が暴れる、照り返しは七色遷移。「ハァ、ハァッ、ハァッ!」泣き声混じりの息が乱れる。ヒマワリ。いいだろう。じいちゃんが生まれたときから身に着けていた、自慢の時計だぞ。左手甲が雨粒を弾く。パシャパシャ。パシャパシャパシャパシャ。
『安い、安い、実際安い』『ヒートリ、コマキタネー……ミスージノ、イトニー……』幻惑広告音声もどこか遠い。聞こえるのは鼓動。不規則な呼吸音。「ハァッ、ハァッ、ハァーッ……!」いいなあ! おじいちゃんの時計、かっこいいなあ! 大きくなったら……「アッ!」酔っ払いサラリマン集団に肩が弾かれ、膝が崩れる。左腕が、バー「はたらこ」のスタンド看板を咄嗟に掴み、転倒を避けた。サラリマンが悪態をつく。中腰で耳を澄ます。……パシャパシャ。パシャパシャパシャパシャ! 涙が滲む。
「ハァ、ハァッ、ハァーッ! ……ハァーッ!」崩れかかる膝を強いて曲げ伸ばし、ヒマワリはよろめきながら前進する。人波が不意に途切れ、走るのが楽になった。視界が真っ白になる。ヘッドライトだ。パー! パパパパー!「ザッケンナコラー!」ヒマワリはスクランブル交差点へと飛び出していた。
「アッ、アッ……」震えながら、肩越しに振り返る。息を吸う。吸うのだ。吸わなければ、吐けない。息をしなければ、走れない。(わかってる)ヒマワリは再び前方を見据え、右手で左手首を握りしめた。左に暴走車。右手に家紋タクシー。左にヤクザリムジン。その後ろから巨大トレーラー。「スウ……ハァ……」涙で滲んだ視界の端、ネオン色彩が幻想的に揺らいだ。パシャパシャ。追跡音が近づく。追いつかれる。渡らねば。交差点を渡り切らねば。信号を待ってはいられない!「スウ……ハァ……」
駆け出す! 巨大トレーラーが走り去った直後、パーカーのフードを風に跳ねのけられながら、オダンゴ・ヘアーの小柄な少女が交差点を……パパパパー! 「ザッケンナコラー!」「シニテッカコラー!」 脇目もふらず全力疾走する少女の背後で武装バスが急ブレーキをかけ、装甲タクシーが追突し、ソバ屋の自転車が次々と転倒し、怒声が響く。濡れそぼった髪を頬に張りつけ、ヒマワリは交差点を渡り切った! そのまま大通り横の狭い路地へ……「危ねェ!」
視線の先、焦点が絞られる。瞳。少年。ピザ・カートゥーンのペイント……ギギャギャギャギャ! 耳障りなブレーキ音とともに油混じりの飛沫が撥ね、スクーターがワン・インチ距離で急停止した。ヒマワリは身構え……バランスを崩し、水溜りに尻もちをついた。パシャ。背筋が粟立つ。……違う。今のは自分で転んだ音。すぐには追って来られないはず。
「アンタ、大丈夫かよ!?」
視界が遮られて我に返った。ピザ宅配員が屋根つきスクーターから片脚だけ降ろして、手を差し出している。よくよく見ればまだ幼い。ヒマワリと同じ年頃だった。所在なさげなバイクグローブの指先をおずおずと生身の右手で握り返し、引かれるままに立ち上がった。
ほつれた前髪から、頬にぽたぽたと雨水が伝う。「飛び出し、危ないぜ。怪我ねえか?」「……ハイ」脱げたフードを被り直し(内側が湿っており、余計に髪が濡れた)、ぐしゃぐしゃのミドルスクール指定スカートを直す。パーカーからはみ出たスカート裾に水がしみている。屋台の匂い。朝から何も食べていない。緩々とチョウチン明かりに目を向けて――
パシャ。「……ッ!」ヒマワリは、弾かれたように振り返った。心臓が再び早鐘を打つ。前に向き直る。気づかわしげな少年。屋根付きの三輪バイク。右! 左! 路地裏の暗闇。バチバチと明滅する、ネオン看板。浮浪者。再び背後! パパパパー! ヤクザクラクション……急ブレーキ音。衝突音。爆炎。
「アイエエエエ!」「アイエエエエ!」交差点の阿鼻叫喚もネオサイタマではチャメシ・インシデントだ。ヒマワリとピザ・スクーターは逃げ惑う市民に押し流される波間の浮標めいて立ち尽くす。「マジかよォ。また帰りが遅くなっちまう……」炎の照り返しを受けて、ピザ宅配バイクが赤く染まる。高層ビルの火影が巨大な古時計めいて揺らめいた。秒針の音が脳裏にリフレインする。「うっ、ハァ、ハァッ……」少女は吐き気を堪え、左手首を力の限り、握った。唾を飲む。「……て」冷たい金属の手触りに、唇が震えた。「……す、けて」
「うわっ!」「助けて!」ヒマワリは、少年に縋りついた。「追われてる! 向こうの通りまででいいから、乗せて」襟を揺さぶられながら、彼はさして驚いた風もなくヒマワリを見た。「ンー……よくわかんねえけど……まあいいか」キュイッ、ボボ……ボボボ。エンジン・キーを回し、少年が浅く座る。「ちょっと狭いぜ。我慢してくれよ」「うん……!」
……「もういいかァ?」「うん……次の通りを…」ネオン光がスクーターの雨除けに揺らめいている。風に暴れるパーカー紐は七色遷移……肩越しに背後を見る。水音は追ってこない。爆炎は、どの方角かもわからないほどに遠い。
『安い、安い』『無慈悲に借金? いいえ、やさしさローンです!』『アカチャン、オッキイ』『新たなDHA、それは……トーフと海』知らない路地を右折、再び右折。
宅配スクーターの屋根に水滴がいくつも伝い、ネオン光があわあわと霞んでいる。山と積まれたピザが揺れている。規則正しく、揺れている。ネオン看板の明滅。安堵に深く息をつく。
ヒマワリは少年の背中にもたれ、話しかけようとした。乗せてもらったお礼を言って……そしたら……時計を…………。「…次の通りがなんだって……?」「……」視界が揺れる。抗えないほどの眠気が襲う。やがて、彼女の意識は遠のいていった。
◆◆◆
アビ・インフェルノと化した交差点。爆炎の中から、燃え盛る屋敷とともに滅びる運命を断じて拒む大柱時計めいて……ゆらり、伸びあがる黒い影あり。炎から現れた輪郭線が火の粉を振り払い、路地裏へ歩み出す。未練がましい火の粉は重金属酸性雨にジュッと音を立てて消えた。……TICK、TOCK、TICK、TOCK。靴音は秒針めいて規則正しい。「……成る程、成る程、成る程」パシャ、パシャ、パシャ。油の浮いたネオン光の水たまりが、闇を散らし、弾ける。背後で配管パイプが外れ、水蒸気が噴き出す。白く煙る蒸気を遮るように、前後に巨体。
「ドッソイ!」「ドッソイドッソイ!」「「カモドッソイ!」」紳士めいた影は釘バットを振りかざし取り囲むスモトリ崩れの双子を無感動に見上げた。黒マントの裏地は紅。「ふむ」モノクルの奥が不気味に光る。「試してみようかの」
「ドッソイドッソイ!」「イヤーッ!」「「ドッソ……アババババーッ!?」」ユニゾン・スモトリの額が割れ、脳漿が水蒸気に交じり天高く噴き出した! 額には歯車型の鋼鉄武器が深々と刺さっている!
「ホッホッホ。……まこと、この世は不可思議千万。さしもの我輩も命運尽きたかと思うたが、それは小娘のほうであったか」裏赤地マントを巻き付けるように閉じ、紳士的な影は路地裏の闇へと、溶けた。……パシャ、パシャ、パシャ。……規則正しい足音もやがては遠ざかり、消えた。
2
「……で? オレにどうしろってンだ」タキはカウンター奥で顔をしかめ、エッチ・ピンナップを無意味に上下させながらコーヒーを啜った。ザックの背後、ソファから少女の寝息。意識を失い、スクーターから道路にずり落ちそうになったところを、どうにか支えて連れ帰ってきたのだ。おかげでミラーを電信柱で擦ってしまった。
ザックは横たわる娘を見た。ツイン・オダンゴ・ヘアーは濡れそぼって、ソファの布地を濃く染めている。コトブキのトレーニングウェア上着はいささか大きすぎた。服の持ち主は濡れた蛍光パーカーを洗うため、コインランドリーへ走っている。ザックは頬を掻いた。
「……だってよォ。放っておくわけにもいかないだろ」「言っとくがな。オレの経験から言うと追われてるガキなんて1000パー厄介事だ。カネにもならねえ!」黒い指先がザックの胸に突き付けられ、唾が顔に飛んだ。「それは、悪かったけどさ……」「けどもケモチャンもねえ! 捨ててこい!」チーン! とろけるチーズとトマトソースの香りが店内を満たす。ピザが焼けたのだ。
ザックはオーブンミトンを嵌めた。「すげえ腹減ってるみたいだったし、ピザくらいはいいだろ。代金なら俺が払うぜ」「そういう問題じゃ……クソッ」タキは舌打ちした。『互助の精神ですよ、タキ=サン』浮遊する多面体ドロイドが明滅した。白く光るたび、カウンターの拭き残しが目立つ。『困っている人を助けないのは腰抜け……』「うるせえ! 電源切ンぞ」
タキがモーターツクモに手を伸ばそうと腰を上げる。ツクモはよける。ザックは熱々のピザを素早く皿に移し、彼女に声を……『重点! 重点!』キャバアーン!「ア?」タキが青ざめた。キタノ地区の監視カメラに同期した警告網に何かが引っかかったのだ。「言わんこっちゃねえ! おいザック、早くそのガキ外に……」『提携機関の職員より緊急訪問要請です。確認中……「キモン」です』「キモン!? なんでだよ!」『到着:五秒以内』「アァ!? ロックだロック! おいザック!」『間に合いません』カララン。鈴が鳴った。
ドアが開き、スーツ姿の女が入店した。「こんばんは。タキ=サン、ちょっといい?」「お、おお。何だ? ピザか? あいにくだがちょっと切らしててよ……!」「そう」ムギコはザックを見た。熱々のピザを皿に乗せたままだ。タキの目が泳ぐ。
ムギコの視線がザックを通り越す。ソファの方向。「……先ほど、重要参考人がピザタキ店内に運び込まれたというタレコミがあった」「いや! ちょっと待て、何か誤解がある。チャ、飲めよ、な」「いただくけど……何か隠してない?」ムギコは渋々カウンターに腰掛けた。タキが即座にユノミを置く。熱々だ!
チャで喉を潤したムギコは、胸ポケットからキモン手帳に挟んだ写真を取り出した。写真はカウンターを滑り、タキの掌に収まる。頬杖をついた女は、デッカーの顔で微笑む。「イツカ・ヒマワリ。ネオサイタマ・タラギ・ミドルスクール在籍。十三歳……どう見ても本人よね」ザックは立ち位置を変え、ソファを背に庇った。「タキ=サン。彼女、引き渡さなきゃなのか?」「ンン……」咳払いし、タキは眉を上げた。黒い指が、脂っぽい金髪をガリガリと掻く。抜け毛がパラパラと落ちる。
「悪いが、ここいらはキモンにドネートしてねえし、強制捜査の権限はねえだろ。令状でもありゃ別だが……」「話を聞きたいだけ。とりあえずは、ね」ザックは油断ならぬ女デッカーを観察した。チャを飲みながらも、常に片手は空けている。隙のない立ち居振る舞い。
「け、けどよォ、キモンって、アレだろ? ネオサイタマに来たばっかの時、タキ=サン、ヤベエ奴らだから関わるなって……」「オイ!」タキが慌てた。コトン。ユノミがカウンターに置かれた音だ。心なしか、響きが硬い。タキはドリンクバー機械の裏に素早く回り、忙しく点検するそぶりを始めた。
「ねえ、ボク」「な、なんだよ? キモンの姉ちゃん。俺はこう見えても修羅場を潜ってきてるタフな男だし、ザカリ―って名前があるんだ」ムギコはカウンターに肘をつき、ユノミを指先で弄ぶ。「そう。ザカリー=サンね。ちゃんと聞きたいな。タキ=サンは、キモンが、なんだって?」「え? だから血も涙もない冷血なヤベエ組織だって……」「あっ、コラ!」タキがさらに慌てた。
「そうなんだ」両手指がゆったりと組まれる。「待て待て待て。ムギコ=サン。誤解だって」「……提携エンブレム」「違う、落ち着け。ザックはよォ、アレだ、話せば長くなる。こいつ、クソッタレのネザーキョウからガキ一人でネオサイタマに渡ってきてだな……」タキはいかに己が天涯孤独ながら逞しく電脳犯罪都市で生き抜いてきたのか、それ故にザカリーに深く共感し庇護者となるべく決意を固めたこと、彼の身の安全を憂慮するあまりに大小の危険を大袈裟に言い立ててしまう親心について力説した。追加で虎の子のダンゴも出した。三つだ!
「ピ、ピザも食うか? 焼きたて熱々だぜ!」ザックから奪ったピザ・マルゲリータも勧める。「あっ! 俺のだぜ!」「別のを焼け!」ムギコは脚を組み替えた。「『ピザは品切れ』だったんじゃない?」「そ、そんなこと言ったか? まあ食ってけよ、サービスすっから!」
さらにタキが裏社会の住人でありながらなお隠しきれぬ善良さゆえの罪について語り始めたところで、「わかったわかった。もうわかった」ムギコはヒマワリのものだったピザを手に取った。チーズがとろりと伸びてトマトソースがこぼれ落ちる。「じゃあ、捜査に協力してくれる?」「ア? そいつは別問題だ。悪いがこっちも商売なんでな。泣く子も黙るテンサイ・ハッカーに依頼するなら相応の報酬が」「……提携エンブレム」「だが特別サービスしてやってもいい!」「頼りにしてる」ムギコが笑った。ザックは二人を見比べた。
ムギコはもう一切れピザを食べ終えると、古ぼけた手配写真を取り出した。「イツカ・ジロキチは知ってる?」タキが目を剥いた。「アア? オレをナメんなよ。クソッタレのコソ泥爺さんだろうが。だがよ……くたばったはずだぜ」カウンター脇の雑誌ラックから新聞紙を引き出す。日付は三日前。三面記事のさらに下、小さな死亡記事。「さすがね」「……待てよ。イツカ……?」「そう」
【伝説の火事場泥棒、イツカ・ジロキチ。享年90歳、自室の大柱時計が倒れ、圧死無惨】
ザックも記事に目を通す。
イツカ・ジロキチの盗難行為それ自体は、何れもささやかなカジバ・スリに過ぎない。爆発抗争現場、違法建築崩壊ビル、タマツキ交通事故交差点…阿鼻叫喚の坩堝に紛れたジロキチは、破壊現場から金目の品を数点奪い、野次馬市民の波に紛れ、都市の闇に消えていく。
カジバから くすね続けて 幾星霜 ……混沌都市ネオサイタマにおいては賞金首にすらならぬ軽犯罪者。だが、ジロキチの盗難実績は他の追随を許さない。当社独自の取材によると生前彼が及んだ犯行件数は天文学的数字であり、本人すらも把握していなかったという……
「火事場泥棒かあ。なんかしょぼいぜ」ザックは冷蔵庫を覗いた。マルゲリータは品切れだ。アンチョビか、チーズ。横から腕が割り込む。だぶついたトレーニングウェアから指先だけが見えている。闇色のネイル。「これが好き」ノリとモチだ。やや照れたしかめ面。「オハヨ。あたしはヒマワリ。世話になった」「俺はザカリ―。ザックでいいぜ」
「カリカリがいいなら、『カリカリ』を最初に押すんだ」「ハーイ」ピッピッ。ピザの温めボタンを、指先まで袖口ゴムに覆われた義指が押す。「ザック=サン。じいちゃんはカッコよかったんだよ」ヒマワリは庫内を睨みながら、左手首を握る。「世界一だよ」「……ん」ザックは神妙にオーブンミトンを嵌めた。「わかるぜ」死者の記憶が魂に根を張る。ソンケイは永遠だ。
少年少女を横目に見ながら、タキはピザ・マルゲリータの最後の一切れを咀嚼した。(重要参考人? 何のだ? ジジイは二度と盗みができねえ。おっ死んだからだ)タキは口元のピザソースを指で拭い、ムギコを盗み見る。簪飾りをタキに晒し、オーブンレンジ前のガキ娘を見据えている。厳しさのなかにも労わりがある。
キモン・デッカー単独での管轄外訪問は珍しい。だがノボセ老誘拐事件の時のような独断専行ではない。おそらくは私用外出を偽装している……捜査協力……。タキはコーヒーを啜った。冷めている。タキの目も。「で?」
ムギコはタキを見る。「何ですって?」「オレの役目は? ガキを引き渡して終わりか? お忙しいキモン・デッカー様がわざわざ、ガキひとりを追っかけて出張ってくるとは思えねえ。家出少女の保護か? アンタらそんなにお優しいのか」ムギコが憤慨した。「血も涙もない冷たいデッカーでごめんなさいね」「そこまでは言ってねえが」タキがやや怯んだ。
「……うそ。あのひとも、どうせじいちゃんのデータが目的だから。あたしのことはどうでもいいんだよ」ヒマワリは聞こえよがしにザックに話しかけた。「知ってる? あいつらマジ暴力的だよ。じいちゃんの腎臓はデッカーに潰されたもん。ぐっちゃぐちゃ」ザックの腕を引いて店奥のソファに陣取り、熱々のノリ・モチ・ピザを頬張りながら、少女は大袈裟に手を広げた。オーバーサイズの袖口がすとんと肘まで落ちる。左腕は肘先がサイバネ置換であった。量産型、非戦闘用、ファッション的DIY改造行為の痕跡なし。タキは目を細めた。
「それは貴方のお祖父さんが…」言い募ろうとしたムギコに、タキがやんわりと声を重ねた。「事実だろ」「でも、私は貴方を保護しようと……」「保護ォ?」ヒマワリはモチを示威的に噛みちぎった。オダンゴ・ヘアーが威嚇猫めいている。
タキは娘の腕を値踏みする。年若い少女に似合わぬオールドクラシックなスケルトン腕時計だけが異彩を放っている……。メタルバンドが手首部分に食いこみ一体化している。小型の歯車が繊細に嚙み合い、秒針がスムースに時を刻む。ピロピロ。タキのデータ端末が尻ポケットで振動した。
「アー……ところでムギコ=サン、今日は車かい」「え? う、うん。道の先に停めて……」ムギコはタキの様子を訝しみ、息を呑んだ。目配せの先、カウンターに隠れて無音で激しく明滅する多面体ドロイド。警告メッセージ。素早く素子を置いて立ち上がる。
「今日は分が悪いみたいね。また来る」「そうか。そりゃご苦労だな」カララン。鈴が鳴り、ムギコは速足で退店した。ヒマワリは背中に舌を出した。ザックが肩をすくめる。タキは急いでノートUNIXを立ち上げる。「クソッ。こんな時にコトブキのやつ、どこで油売ってやがる」ムギコと入れ違いに閉じたばかりのドアが開いた。「ただいま戻りました!」スチームパンク探偵風コーデに身を包んだコトブキだ。
肩掛け探偵鞄からジュニアサイズ・パーカーを取り出し、顔の横に掲げる。「遅えぞ!」「すみません。ランドリーがいっぱいだったので……でも、まだ温かいですよ!」『重点! 重点!』突如、ミラーボールめいてドロイドが天井近くに舞い上がり、店内をグルグルと警戒色に染め上げた。店内にサイレンが響き渡る! 「クソが! 早すぎる!」タキのタイピング速度は倍に!
『『ビガー!ビガー!ビガー!』』重奏的警告音だ! ザックは天井付近を舞いながら警告を鳴らすツクモに仰天した。「な、なんだよ?」だが、警告音はユニゾンだ。音源はふたつ!ザックの左隣からも!『ビビッビビガー!ビガー!ビガー! アラート、アラート! 外敵可能性極大!』 ヒマワリのスケルトン腕時計だ。文字盤のふちがルーレットめいて光点急速回転する。レッドアラート! ヒマワリは青ざめ、腰を浮かせた。
瞬きの間にも、少女はテーブルを踏み台にソファの背を踊り越えていた。滞空中に借り物のウェアを脱ぎながらコトブキの元へ駆ける! 上着の下からミドルスクールの制服が現れた。
着地コンマ三秒後にはコトブキに駆け寄り、洗濯ずみ蛍光パーカーをひったくり、脱いだトレーニングウェア上着と交換。制服の上からパーカーを羽織りがてら腰をひねり、振りかぶって素子をザックに投げ渡す。「ウワッ!」ナイスキャッチ! 「ゴチソウサマデシタ!」「えっオゴリだぜ!?」「いいの!」『ビガー!ビガー!ビガー!』左手首の腕時計盤が、鳩時計の時報めいて左右に開きだす。ヒマワリは激しく左手を振った。「ヤバイヤバイヤバイ! 出なきゃ!」
カラララン! ドアベルを鳴らしてドアを引き開け、店外に駆け出そうとして急ブレーキ。『ビガー!ビガー!ビガー! スクィールガ緊急離脱ヲ警告シマシタ!』「黙って!」左手首に声を荒げ、オダンゴ・ヘアーが振り返る。付け根の白リボンが翻った。ヒマワリは、コトブキ、タキ、ザックを順に見回し、素早く、しかし深々と一礼した。
踵を返し、ドアに手をかけ……瞬間、閃光がピザ・タキを、ドアの形に白く照らした。稲光か? だが次の瞬間、窓ガラスがビリビリと窓枠ごと震え、爆音が遅れてストリートを揺るがした。KABOOOOM! KA-BOOOOM! 衝撃波が戸口ごとヒマワリを吹き飛ばした! 爆風だ!
コトブキは咄嗟に跳躍すると、気絶したヒマワリを抱え込み後方一回転、床ワックスを削りながら着地した。「敵襲ですか!?」「姉ちゃん! ヒマワリ=サン!」我に返ったザックが駆け寄る。タキはカウンター奥から顔を出して叫んだ。「コトブキ! 外に出て走れ! ガキに迎えが来る!」「わかりました!」
コトブキはヒマワリを抱き上げるとオレンジ髪を翻し、粉塵舞いあがるキタノ・ストリートへ飛び出した!『ビガー!ビガー!ビガー!』 「ハイヤーッ!」
3
「ヤバ過ぎるぜ。姉ちゃんたち無事なのか!?」「コラ! ザック!」咎めるタキに構わず、ザックはコトブキを追って戸口を飛び出した。粉塵で視界が悪い。「ツクモ! 着いてけ!」店内からタキの怒声。泳ぐように浮遊する十二面体ドロイドが七色に光る。『アイ、アイ、サー』光が道標だ!
数メートル走るとすぐ馴染んだ輪郭を捉えた。予想以上に近い。それだけ視界が悪いのだ。「ゲホッ、ゲホッ……姉ちゃん!」「ザック=サン!? 危ないですよ!」 コトブキの頬に白い光。粉塵ゼロ視界を、ヘッドライトが撫でまわし、ギャギャギャギャギャ! ワン・インチ先にマッポビークルがドリフト停車していた。ウインドウからムギコが声を張り上げる。「貴方たち! 乗って!」「ハイ!」「わかったぜ!」『ヌンヌンヌン』
KABOOOOM! 更なる爆音! 車体がバウンドする。コトブキがヒマワリを後部座席に投げ入れ、ザックが飛び込みドアを引く。バタン! 同時に車は急旋回して発進した。「しっかり掴まって!」回転灯を激しく鳴らし、急加速!
『次を右だ!』ダッシュボードパネルにタキのポリゴン顔が映った。「了解!」ムギコがハンドルを切る。ザックが転がり、コトブキにぶつかった。『もう一度右だ! そっからUターンして上がれ!』ギャルギャルギャル! 交差点から高架道路へ! 「ハッ!?」ヒマワリが目覚めた。「な、なに? 今どうなってる?」
「黙っていなさい! 舌を噛む!」ムギコが叫ぶ。正面のトレーラーを避けて装甲リムジン隊列の隙間を抜ける。バーパパパパパー! クラクションの嵐だ!『クィールクィール!』腕時計が反発した。KBAM! KBAM! ……KBAM! 音が徐々に近くなる。何者かの攻撃だ。「タキ=サン! 次は!?」『しばらくそのまま走れ! 次は……ブツリ』不自然な中断。「タキ=サン!?」コトブキが身を乗り出した。『……いや、何でもねえ。こっちの話だ。ジャンクションで左に行け! 』車体が跳ねる! ドロイドが天井にぶつかり、電子的悲鳴を上げた。デッカー靴がアクセルを踏み込む。装甲ビークルはさらに加速した!
◆◆◆
タキは隠し梯子の残り数段を飛び降り、地下四階デッキに取り付いた。先ほどからIRCノーティスがやかましい。また来た。タキは顔をしかめた。盛大に舌打ちし、ムギコの通信を保持したままでぞんざいに応答。『タキ』『アア!? 何だ! 今忙しんだよ』『調べものだ。急ぎだ』『忙しいっつってンだろが! お前は後だ!』ブツリ! 謎IPを切断! 減らしていた意識配分を装甲ビークルに振り向ける。
監視カメラの映像をザッピング。トレーラーに残る残像、抉られる道路……めり込んだ鋼鉄歯車。冷たい電子汗が流れる。ニューロンの鈍化した世界で電子タキは口を覆い、考え込んだ。(こいつは早計だったか? ニンジャじゃねえのか?) 再びノーティス。奴に依頼するべきか。リアルタイムマッピングのビークル位置……既にマルノウチ周辺至近。利益計算。キモンとニンジャスレイヤーの衝突リスク。またもIRCノーティス!(あの野郎トラブルを起こすに決まってるぜ! 尻拭いは全部オレだ)決断的に無視を決め込む!
没入するほどにタキの目はとろんと白目がちになり、半開きの口の端から涎が手の甲に落ちる。ザゼンドリンクの空き瓶がカタカタ、と揺れ、LANケーブルの巣へ落下し、転がった。01情報が虚ろな網膜を流れ、タレコミが系統図を広げていく。
『タキ=サン! 追手は!? 次はどっちに行けば、』『多少はキてるが問題ねえ! カーブの先にハイウェイが見えてくるがまだ乗るな! マルノウチなら下行った方が早え!』ムギコの応答マーク。ネオサイタマ市街図のグリッド図を素早く精査する。緑の光点が、点滅しながら、徐々に距離を詰めている。間違いなくビークルを追っている。ガキ娘が狙いだ。違う。ガキ本人ではない……(あのひとも、どうせじいちゃんのデータが目的だから)
「狙いは時計だ」
スケルトン歯車が車外のネオン光を照り返す。ヒマワリは盤面を水平にした。「ヨキチおじさんだと思う」「……ヨキチ? イツカ・ヨキチ?」ムギコが訊き返し、コトブキが受ける。「高級時計店【イツヨ】の社長さんですよね? ネオサイタマTVのCMにも出演していました……紳士風の…アー♪ 品格は物理 ♪ チックタック♪ いつでも傍に……チックタック、あなたの品格、イツヨ~♪」コトブキがCMソングを口ずさむ。ヒマワリが俯いた。
「そう。じいちゃんの相続人。けどじいちゃん、時計だけはあたしにくれた。死ぬ前に」ザックの視線を捉えて、ヒマワリが頷く。「子どものころからあたしが、欲しがってたから」車体がバウンドした。時計の盤面は開いたまま。ミニチュアサイズのホロ画像が展開している。ネズミ・アイコンの走る電子グリッド図。クィール!ネズミ・ポイントでホロ図が震え、時計が鳴いた。「車体が左寄りすぎる。2秒後、アスファルト、ビル影で見えないクラック」ヒマワリが呟いた。「えっ?」ハンドルが取られる。ムギコは驚愕。
ガガガガタタタタ……ガッタン! 陥没アスファルトにタイヤがはまりかけている! 思わぬ段差に車体が激しく揺さぶられ、後輪タイヤが浮いた。「こ……の……!」ムギコは席下の赤レバーを力任せに引いた。自動運転AIが強引に立て直す。車体は幾度かバウンドし、再び加速して路上へ。ムギコの首筋に冷や汗が伝う。特殊改造ビークルでなければ横転不可避であった。
「すげえな」ザックが歓声を上げた。「でしょ」得意げに笑いかえしたヒマワリは、ホロ図像を畳んだ。バックミラー越し、一瞬見えたホロ図像は驚異的に仔細で緻密であった。ムギコは何気なさを装って語る。「火事場泥棒ジロキチが生前身につけていた生体デバイス【スクィール】ね。天文学的な都市記憶のデータベース」「うん」「貴方ごと争奪戦になるわよ」「知ってる。それを『保護』っていうんだよね」ヒマワリが皮肉った。
「データは生体同期だから、所有者が不測の事態で死ねば全部消える。ヨキチおじさんは、あたしを座敷牢にでも閉じ込めて飼う気なんだよ」道路灯の光が規則正しく流れ、ヒマワリの金属義肢に光の波をつくる。「時計はじいちゃんとあたしのだし、そんなのはごめんだ。だから……」言葉を切って、ヒマワリは唇を噛んだ。
「ビルが見えてきた! あとは大丈夫! 応援要請も済ませたし……」 『ムギコ=サン! 待て、曲がるな!』「えっ?」『SHIT!』ダッシュボードのポリゴン・タキが叫び、【リモート運転な】のミンチョ・極大フォントが全画面表示された。ムギコの操作を待たずにブレーキがぐっと沈む!「お二人とも! しっかり掴まってください!」コトブキは咄嗟に少年少女を抱き寄せて身を沈め、衝撃に備えた。モーターツクモも探偵風サスペンダーに密着する。ムギコはブレーキ制御をリモート・タキに任せ、窓を開けながらデッカーガンを抜いた。ギギキキキキーッ! 不快なブレーキ音が耳をつんざく間もなく、轟音とともに前方数メートルに重量物が落下! 粉塵がフロントガラスを白く染める!
間一髪であった。ネオン光が陰り、アスファルトが激しく波打つように揺れる。「ウワーッ!?」ザックの叫び声。ムギコは激しい風圧に耐える。重量級の鋼鉄歯車が、ミサイルめいて五月雨式に数メートル先のアスファルトへと降り注いでいる!
パパパパー! キキキーッ!! 急ブレーキ車両多数! パパパパーッ!「ザッケンナコラー!」 KRAAASH! KRAAASH! KRAAAAAASH! 車両の玉突き多重事故だ!「貴方たちも車の外へ!」ムギコがデッカーガンを片手に構えながら叫んだ。「はい!」コトブキはドアを開け、二人を抱えながらアスファルトへ転がり出る。KABOOOM! 後方車両が爆発炎上した。
爆炎の照り返しを受け、ムギコは中空へデッカーガンを構えた。何かが……近づいている! ニンジャ検知器が反応した。ニンジャ!「イヤーッ!」「伏せて!」BLAM! BLAM! BLAM! 攻撃前の先手射撃が、奇跡的にスリケンを弾いた。だが……! 「クウッ……!」ギャリイン! 撃ち落とし損ねたスリケンがひとつ膝付近を掠めて裂き、背後のガードレールに衝突、紙屑めかせた。血が噴き出る。
奥歯を食いしばり、痛みに耐える。脚をやられた…! だが応援要請は受理されている。到着までニンジャ相手に守り切れるか。違う。市民だ。守るのだ! ムギコは簡易的止血バンドを巻きながら、痛みを押し除けるように強いて声を張り上げる。「逃げなさい!」KRAAASH! KRAAASH! KRAAAAAASH! 「アイエエエエ!」「アイエーエエエ!」逃げ惑う市民! 間断なき飛来物。空中パイプがひしゃげ、高層市街に熱蒸気を振り撒く。
『ビガー…』「わかってるよスクィール!うるさい!」粉塵のなかでヒマワリが時計を黙らせた。「貴方もはやく……」ムギコは駆け寄ろうとし、「イヤーッ!」「ンアーッ!?」左斜め上から飛来物に紛れて落下してきた何者かの攻撃を受けた。間一髪、デッカーガンを挟み込み防御したが敵が強い。BLAM!弾き飛ばされながらかろうじて放つ執念も空を切る。
「イヤーッ!」「ンアーッ!」再びの衝撃! ムギコは盾にしたデッカーガンごと吹き飛ばされ、舞い上がり、軌道のまま落下し道路へ叩きつけられ…「させません!」瓦礫の隙間から疾風めいてオレンジ髪が走り出た。落下地点へスライディング! 受け止める!「確保しました!」BOOM! コトブキは身を伏せたまま、頭上を唸る追撃スリケンをかわした。
油断なくタイミングをはかり、ぐったりしたムギコを背負う。ムギコの血でコトブキのレトロ探偵ショートコートが赤黒く染まった。「危険な状態です……!」コトブキは再び飛来した鋼鉄歯車を躱し、粉塵道路を駆け抜ける。赤いレーザー光線が追う!「!?」避ける! 右! 左! ジグザグに走りながら事故車両を跨ぎ越え回り込み、やり過ごす。再び駆け出す! レーザー光線! オレンジの髪束が数本焼き切れ、火の粉めいて散った。決然たるコトブキの瞳に映るのは、ビル並木の向こう、一筋の雲間、燃える空。日が沈む前のひととき。
コトブキはザックとヒマワリを隠した道路脇の深い亀裂穴に飛び込み、ムギコを横たわらせた。ヒマワリが見つけた都市の死角だ。「ご無事ですか?」「平気だ」「……その人、大丈夫なの」ヒマワリの顔が陰る。意識のないムギコ。蒼白だ。呼吸は浅く、速い。「きっと大丈夫です」コトブキが力づける。ザックはヒマワリを見た。決然たる表情。(マジでやるのかよ、ヒマワリ=サン)
……その、少し前。コトブキが飛び出した直後の会話をザックは思い返す。(「ザック=サンって救命行為できる?」「えっ? 俺はまだできない……けどコトブキ姉ちゃんならAEDできるぜ。見たことある」「そっか」ヒマワリは頷く。「じゃあ任せる」耳元で、計画を。「マジかよ」)
パシャ。足音だ。血溜まりを悠々と歩く。時計の針のように規則正しく。カツ、カツ、カツ。パシャ…パシャ…パシャ。ザックは息を潜めた。光が翳る。威圧的な気配。「出てきたまえ。仔ウサギ」「……」「卑劣な敵です。いけません」コトブキが腰を浮かせるヒマワリを押し留めた。
「大丈夫。時計があるからすぐには殺されない。すぐにキモンの応援が来るんでしょ。それまでザック=サンと……その人をお願い」ヒマワリはムギコを流し見た。「ですが!」「姉ちゃん、作戦があるんだ。聞いてくれ」ザックが真剣にコトブキの袖を引いた。ヒマワリは小さく頷き、アスファルト亀裂穴から這い出た。
「……嘆かわしいの。よりにもよって我が一族の宿敵たるキモンに庇護を求めていたとは。何たる厚顔無恥。恥を知りたまえよ、小娘」暗闇にのまれつつあるビル街を背に、モノクル奥の赤点を消えゆく夕陽めいてぎらつかせたカイゼル髭のニンジャ。美しく整えた髭を誇示する最高級スケルトンメンポ。スーツに黒マントを羽織り、紳士めいて背筋を伸ばしている。ヒマワリは歯を食いしばり、ビル風に煽られるパーカーの裾をはためかせた。膝が震えている。本能的にニンジャを怖れているのだ。暴れる紐に照り返すのは、血のような赤。
「……たまたまだ。頼んだわけじゃない」震える右手で、左手首を強く握る。「ヘンタイに飼われるより数倍ましだし」紳士はヒョッと眉を上げる。「心外な。紳士たる我輩が愛する姪に左様な無体な真似をするはずがなかろう。愛らしい籠の鳥として、実に丁重に扱うとも……無論、小娘自ら「スクィール」を譲り渡したいと頭を下げて我輩に頼むのであればそれも良い。小鳥は空を飛びたがるものだ。我輩は紳士。即座に応じよう」「……」「知っているのだろう? 譲り受けたからには」
ヒマワリは頷いた。(1)所有者の鼓動が停止。(2)またはデバイスと心臓に一定以上の距離が空いた場合……デバイスは所有者が害されたと判断し、個人情報保護のため自動的に全データが消去され初期状態にリセットされる。
ジロキチが生前最も好んだ生体同期型デバイス「スクィール」。
例外はひとつ。「譲渡モード」を起動し、正式な手順を踏んで所有者変更をかけた場合に限り、データ保持の選択が可能となる。だが。
「……知ってるよ。でも譲りたくない。じいちゃんがくれたのに!」「 成る程、 成る程。非・紳士的行為を働くのは非常に気が咎めるのだが致し方なし……」黒マントを開く。裏地は紅。マントの裏地には、無数の歯車スリケンが……海底岩に張り付くフジツボめいて!
「あ……あたしを傷つけたら、データが消える……おじさんが一番知ってるくせに!」左手で身を抱くようにして、ヒマワリは威嚇した。カイゼル髭の下が歪に捻じれる。「我輩を何だと思っているのかね? 我が仔ウサギが大事に背中に守っている仲間ウサギがおるではないか」「あの人たちは何もしてない!」悲鳴にも似た叫び。
パシャ。折れ重なる市民の血溜まりを。パシャ。横転車両から漏れ出た違法不純オイルを。パシャ。重金属酸性雨の水たまりを。一歩一歩踏みしめながら、カイゼル髭のニンジャは距離を詰める。ヒマワリの肩が震える。俯いた額に、邪悪な影が落ちる。ニンジャ威圧感。
「……わかった」ヒマワリは絞り出すように呟いた。「だから……他の人に手を出さないで」「Ho! グッド」蛍光パーカーの左袖をたくし上げる。盤面をルーレットめいて回る光点。外敵アラートを出し続けている。「スクィール。じいちゃん。ごめんね」
(今からお前が一番欲しがっていたモノをあげよう)(そんなの後でいいよ! 大時計をどけなきゃ死んじゃうよ!)(一度しかやらん。見て覚えなさい。儂もそうした。じいさんのじいさんの伝説的盗みを……いいかいヒマワリ。秘密のコマンド……ツマミを…)
スケルトン時計横に張り出したツマミを、闇色ネイルが引く。『時刻調整モード』スクィールの電子音声。「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」威圧的視線。本能がNRSへと誘う。息を吸う。ゆっくりと吐く。つまみを回し、針を回転させる。2時、22分、22秒。時刻を合わせ、つまみをタップ。22回。盤面が持ち上がり、多層展開する。現れた極小プッシュ・スイッチを、決められた順に2度ずつ押す。バチバチとまとわりつく火花。
『スクィールデス。シークレットコマンド確認。トケイヲ、ススメマスカ』「OK」『モウ一度警告シマス・トケイヲ、ススメマスカ。YES or NO?』「YES!」『アイ・アイ……マスター・ネーム』「イツカ・ヒマワリ」『了解シマシタ。テン・カウントシマス。レディー?』深く、息を吐き出し、ヒマワリは力なく顔を上げた。
「ヨキチおじさん。手を出して。こうして、手のひらを合わせるの」「成る程」大小の手が不均衡に触れ合う。ヒマワリの喉が鳴った。「あたしがゴーかけたら、スクィールがテンカウントする。10秒経ったら、所有者移転成功」「成る程」モノクルの奥が威圧! ヒマワリは俯く。「絶対、動かさないでよ」
「スクィール。『ゴー』!」ヒマワリが叫んだ。
『アイ、アイ』……バチ、バチチチッ。時計が帯電した。激しく青い火花が散る。カウントが始まった。『10……9……8……7……』ヒマワリは顔を上げ、ニンジャとなった叔父を睨む。赤熱のニンジャモノクルに、背後の亀裂が歪んで映る。ザックが亀裂から顔を出し、見守っている。『6……5……4……』ヒマワリは頷く。『3……2……1……』バチッ……バチバチ。髪が逆立つほどの激しい電流だ!『0。強制シャットダウン開始』「何…!?」両者を青白い電流網が包み込む!
「ザマ、ミロ……! あたしの心臓を道連れにして、止める! そしたらもう二度と動かない!」『データヲ・初期化・シマス。カラダニキヲツケテネ!』バリバリバリバリ!「グワーッ!?」「ンアーッ!」バリバリバリバリ! 心停止電気ショックだ! パリィィン! モノクルが割れる。激しい電流網は暴れ狂うオロチめいて、高層ビル街を白く染めあげた!
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「ヒマワリ=サン!」電流が収縮し、二人の影が倒れ込んだところで、ザックは亀裂から飛び出した。ヒマワリの上半身を持ち上げ、心臓に耳を当てる。「心臓が止まってる! コトブキ姉ちゃん!」「ハイ!」既に駆けつけていたコトブキは小児科仕様に出力を調整!「ハイヤーッ!」ドンッ! AEDパンチを繰り出した!
ザックが息をひそめて蘇生行為を見守る。蘇生が叶えば、ヒマワリの作戦は成功だ。あまりにも無茶な作戦。無力な小娘だからこそヨキチは信用した。だが……「成る程、成る程」「何ッ!?」パチ、パチと帯電させながら、不意に背後の影が濃さを増した。「ザック=サン!」コトブキが蘇生行為を継続しながら叫ぶ。ザックは振り向いた。ヨキチが立ち上がっている! ナムサン! ニンジャ耐久力の前には心停止電気ショックさえも無力だというのか?
「やってくれたの、小娘……ジロキチ譲りの大した度胸よ……」膨れ上がる殺意。ザックは悟った。目的を果たせず怒り狂ったニンジャの暴虐が、目の前のザックとコトブキに今、叩きつけられようとしている。電流火花を纏ったモノクルの奥が、禍々しくザックを射抜いた。だが今、コトブキが自衛のために蘇生を諦めれば、ヒマワリもろとも……!「チクショーッ!」
「Wasshoi!」
その時! 地獄めいたシャウトが響き渡った!
カイゼル髭の紳士は訝しげに頭上を見上げた。雲間に覗いていた夕焼けは星空となり、そこから赤黒い流星が豪速降下してくる! 燃えるマフラー布を背後になびかせ、地獄の流星は星形の鋼鉄武器を立て続けに生み出し、放った。
「ム……!」黒マントを開くと、複数の大小歯車が浮遊、回転、迎撃する! KBAM! KBAM! KBAM!
対消滅したスリケンの奥から、怒りに燃える瞳が落下エネルギーを乗せた拳を振りかぶり、ひび割れたモノクルに映り込む。ワン・インチ距離。「イヤーッ!」「グワーッ!?」カイゼル髭は横殴りに吹き飛ばされ、アスファルトを水切りめいてバウンドした!
「ニンジャスレイヤー=サン!」「アニキ!」殴り抜けたエネルギーを利用し一回転着地したニンジャは前傾姿勢でメンポから蒸気を吐きだし、コトブキとザックを一瞥した。その奥の少女も。「……下がっていろ」『ザリザリ……オイ、何がどうなってる!? まさかだがお前……』ニューロンにタキの喚き声。マスラダは眉間に皺を寄せた。通信遮断。前方を睨みつける。
埃をはたき落としながら、マントを翻し、立ち上がる紳士のシルエット。「ゴ、ゴボボーッ!……クッ……」スケルトンメンポを外して吐血する。顔を歪めながらもあくまで再装着の手つきは優雅に。「Alas! 君は誰かね。何たる乱暴狼藉……この我輩に……」「ドーモ。ニンジャスレイヤーです」ニンジャスレイヤーはさらに低く身を沈め、アイサツした。「アワーホイールです」紳士。「そうか」ニンジャスレイヤー。「乱暴狼藉の続きだ」
多重事故現場の交通整理を強行突破したヤクザリムジンが背後で亀裂にタイヤを取られ横転大破する。 KA-BOOOOM! 対峙する両者の奥で爆炎が吹き上がり、両者の頬を照らした。次の瞬間、ニンジャスレイヤーは……地を蹴った! だが!「イヤーッ!」「!?」割れたモノクルから殺人レーザー射出! ニンジャスレイヤーは赤の軌跡を瞬間的加速で躱し、さらに駆ける。BOOM! そこに歯車スリケン! ひとつ、ふたつ、みっつ……軌道は単調。回避は容易だ。しかし。
ガチガチガチガチ! バラバラに飛んできた歯車は瞬く間にかみ合い、複合体となって軌道を変えて背後からニンジャスレイヤーに襲い掛かった! 避けきれぬ!「グワーッ!」「圧死無惨、圧死無惨!」アワーホイールの高笑い! だがニンジャスレイヤーは叩きつけられる直前に腕を伸ばし、高架道路街灯へフックロープを射出していた! 圧死回避! 大時計の長針めいて街灯を軸に大きく一回転し、斜め後方からアワーホイールを強襲した!「イヤーッ!」「グワーッ!」ケリ・キック! 再び水切りめいてバウンドしていくアワーホイールの足首を前転着地しながらフックロープで捕らえ、引き寄せる!「グワーッ!?」
ニンジャスレイヤーの背に、縄めいた筋肉が盛り上がった。彼は腰をひねり、アワーホイールをフックロープごと引きずり上げると、数メートル先の破砕武装トレーラーに叩きつけた!「イヤーッ!」「グワーッ!」再び逆方向にフックロープを振り、大時計の振り子めいて今度はヤクザリムジンのスクラップ山に叩きつける!「イヤーッ!」「グワーッ!」右! 破砕武装トレーラー!「イヤーッ!」「グワーッ!」左! ヤクザリムジンスクラップ!「イヤーッ!」「グワーッ!」右!「イヤーッ!」「グワーッ!」左!「イヤーッ!」「グワーッ!!」チック、タック、チック、タック……!
「アバッ、アバッ……」アワーホイールは痙攣し、振り子が時を止めたことにも気づかない。パシャ。歩み寄る靴音。黒マントに、より黒い影がかかる。「終わりだ」地獄の鉤爪が頭を鷲掴みにし、紳士的頭蓋を時刻の確認でもするかのように高く持ち上げた。「アバ、アバ、アバババーッ!?」恐るべき力で脳を締め上げられ、眼窩から黒い炎が噴き出す。「サヨナラ!」アワーホイールは爆発四散した!
……ツカツカと近寄る足音は遠慮がない。見下ろしてくる青年ニンジャを、蘇生したばかりの娘はコトブキにもたれ、朦朧と見返した。「ヒマワリ=サンか」「……! なんで……?」男は素っ気ない。「「CANOPUS」の書き込みを見た」「……あ」
ヒマワリは、あやふやな記憶を辿り、やがて呟いた。「都市伝説だと思ってた」そうだった。命の危険を感じ、藁にも縋る思いで数日前に書き込みした。祖父の思い出の品を受け継いだところ、暗黒社長の親戚に命を狙われている。助けてほしいと。ヤバレカバレだった。実のところ似たような幾つものサイトにSOSを送ってもいた。何もしないよりましだと思ったのだ。
『オイ! 済んだならてめえだけでもさっさとズラかれ。キモンとのトラブルは御免だ!』タキから通信。マスラダはマルノウチスゴイタカイビルを見た。ファンファンファン。『御用! 御用!』 彼の耳にもマッポビークルのサイレンが届いている。「知るか。もともとはおれの依頼人だ」『アア!? オレは知らねえぞ!』「当然だ」マスラダは頷く。「おれ個人の仕事だ」
都市伝説めいた秘密IRCチャンネル。長らく放置されていたHELPコールの数々に、あるときから動きがみられた。再びメッセージが届き始めたのだ。「俺たち大丈夫だからさ! アニキはヤバくなる前にずらかった方がいいぜ」「また後でお会いしましょうね」「ああ」二人に頷き、ニンジャスレイヤーはマフラー布を燃やしながら、街灯とビル壁をトライアングルリープしてネオサイタマの闇に消えた。
◆◆◆
『安い、安い、実際安い』『アカチャン、モットオッキクネ……』広告音声と重金属酸性雨が降りしきるスクランブル交差点前。から、ひとつ入り込んだ路地。安い屋台が軒を連ね、女子高生に人気の闇サイバネ施術看板が欺瞞的ポップ広告音声を歌う。意識外の隠し扉から現れ配達ピザを受け取ったヒマワリは、ノリ・モチ・ピザベントーを頬張る。「え? データ消去のあれ? めちゃめちゃダミーだよ」「マジかよ」隣にはピザ配達スクーターにもたれてヤキフ・スティックを齧る少年。
「消すわけないじゃん。じいちゃんの思い出なのに」水平にした左腕に盤面多層展開する腕時計からはネズミの走り回るホロ画像。「それにこうやってデータも更新してかないと」【🐀街区データスキャン:アップデート中な🐀】のミンチョ文字がくるくると秒針と同じ速度で回っている。
ザックは慄いた。「スゲエ度胸だよな。心臓止まってたんだぞ」「死ななかったじゃん」事も無げにヒマワリ。「まあいいや。店長さんにもお礼、言っておいてね。あと……キモンのひとにも」「いいけどよ。また店に来てもいいんだぜ」ザックは指についたヤキフのたれを舐めた。ヒマワリは顔をしかめた。「だってあの店、キモンの賞金稼ぎが来るんでしょ? あたしも、じいちゃんの後を継ぎたいんだよね」「火事場泥棒?」「それ、ザック=サン的にはしょぼいんでしょ。何か考えるよ。かっこいいやつを」にやりと笑い、ホロ画像を畳む。蛍光パーカーの袖で腕時計を隠す。
「じゃあね!」 パシャパシャパシャパシャ! クラクションをするりとかわし、軽やかに跳ねる厚底ブーツ。水たまりを跳ね散らかしながら、オダンゴ・ヘアーがリボンをなびかせ、スクランブル交差点に消えていく。パパパー!
ザックはピザ・スクーターに寄りかかり、見送ってから、スクランブル交差点前の巨大LEDモニターの時報を見つめ……はっと姿勢をただした。「ヤバイ! 次の配達に遅れちまうとこだった!」ザックもまた配達スクーターに忙しく乗り込み、走り去った。
【ザ・クロック・スタプト・ネヴァー・トゥ・ゴー・アゲイン】終わり
楽しいことに使ったり楽しいお話を読んだり書いたり、作業のおともの飲食代にしたり、おすすめ作品を鑑賞するのに使わせていただきます。