アフター・グリー

  子供のころに魔法の呪文を教えてもらった。 

 あれは梅雨の季節の葬式だった。おばあちゃんが亡くなり、みんながさめざめと泣いていたが、僕は涙が出なかった。あの時の僕には人が死ぬこと、その意味を未だよく理解出来ていなかった。 

雨の染み込んだ土と線香の匂い。お坊さんの唱える念仏の声。やたら豪華に飾られた棺。そういうものを、どこか遠い世界の写真を見つめるような気分で眺めていた。 

 おばあちゃんについて僕が知っていることはあまり多くない。数年に一度お盆の季節に会うだけで、普段から親しく接している人ではない。それに、その頃から人見知りだった僕は、滅多に会わないおばあちゃんになかなか懐けなかった。小学校に上がるときにランドセルを買ってもらったらしいのだが、あまりピンと来ない。あるいは、おばあちゃんとの思い出が不足しているため、僕はあの時泣かなかったのかもしれない。 

 葬儀の場で泣いていなかったのは僕の他にも何人かいた。そのうちの一人がおじいちゃんだ。

  おじいちゃんはおばあちゃん、つまりおじいちゃんにとっての妻を亡くしたのだが、悲しいような顔もせず、ただ何かを深く考えているかのように俯いていた。やがてお通夜が終わり、その場にいた人たちは棺の前から離れていったが、おじいちゃんだけはいつまでも立ち上がろうとはしなかった。

  僕はその姿がなんだか気になり、声をかけた。

  どうしたの、と僕が言うと、おじいちゃんは顔をあげて僕と目を合わせた。眼鏡の奥の目が少し光っていた。

  おじいちゃんは何も言わなかった。短い沈黙。周りでは葬式のあれこれで慌ただしくしているのに、僕とおじいちゃんの二人だけが辺りの空間から切り離されているように感じた。

  しばらくして、おじいちゃんは重たそうに口を開けて、小さな声で言葉を発した。

  いいことを教えてやる。

  そうして僕は、魔法の呪文を教えてもらった。


 「それで、結局どんな魔法なの?」 と、彼女は儀礼的に、つまらなそうな声で訊いた。

  梅雨の図書室は人が多い。テスト期間中で部活動がないので暇を持て余した生徒が多く、いつもの閑散振りが嘘のように賑わっている。僕らも彼らと同じように、勉強のためと称して席を占領しながら問題集にも手をつけずにいた。

 「それがね、どんな願い事も叶う魔法なんだ」

 「ふーん」 

「信じてないね」 

「そりゃねえ」

  彼女は問題集のページを開いて、シャーペンを片手で回して遊んでいる。僕はペン回しが出来ないから、彼女の指で小さなプロペラのように回転するシャーペンを見ると、なんだか負けた気分になる。

 「魔法の言葉、私にも教えてよ」 

「もう覚えてないよ」

 「どんな願い事でも叶う魔法なのに?」 

「どんな願い事でも叶う魔法なのに」 

「もったいないなぁ」 

「もったいないねぇ」


  なんだか言ってる僕自身も胡散臭くなってきたが、本当に魔法の呪文はあった。結局僕は一度も使わなかったが、あの時教えてくれたおじいちゃんの目は嘘をついていなかった。重大な隠し事を告げるようにひっそりと伝えられた言葉は、それが確かであることが僕には感覚で分かった。

  おばあちゃんを、戻ってこさせられないの? と僕はおじいちゃんに訊いた。なんでも願い事が叶うなら、死んだ人を生き返らせるのも可能じゃないのか、と。

  おじいちゃんは寂しそうに顔をして、静かに顔を横に振り、それはやっちゃいけないんだよ、と答えた。

  今思えばあの時のおじいちゃんは、その魔法を使うかどうか悩んでいたのだと思う。ずっと、考え込んでいたのだと思う。でも倫理とか道徳だとか、そういうものが邪魔して使えなかったのだろう。

  そして、僕に魔法の呪文を教えた理由も、なんとなく分かる気がする。 今となっては確かめる術はないのだけれど。


 「その魔法があればさ、テスト勉強とか、受験とか、全部やらなくていいのに」シャーペンはまだ彼女の指で回り続けていた。

 「本当だね」僕は適当に相槌を打つ。 

「もったいないなぁ」と彼女はまた言った。 

「もったいないねぇ」と僕も繰り返した。


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