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トワイライト

 電車の到着を告げるベルが駅のホームに響いた。
 英単語の暗記カードをぱらぱらとめくっていた僕は、その音に顔を上げ、電車の到着を待った。
 数秒後、ホームに電車が停車し僕の前でドアが開くと、僕はその電車に乗り込んだ。窓から西日が差し込み、眩しい。夕方の電車は人が疎らで、どこか寂しい雰囲気がある。僕は車内に彼女の姿を認め、いつものように隣に座った。
「こんにちは」僕は言う。
「こんにちは」彼女が応える。
「今日は何の本を読んでいるんですか?」僕は彼女の広げている本に視線を落としながら訊く。
「ひねくれ者の少年が、高校を辞めた日のことを回想する話」彼女はそう言って、持っていた本の表紙を見せてくれた。読んだことはないけれど、タイトルだけは知っている小説だった。
 そうですか、とだけ僕は言って、持っていた暗記カードを再びめくり始める。夕日を背にして座る僕ら二人の影は、電車のなかに大きく大きく映し出されていた。僕らの他に乗客はおばあさんが離れた所に一人座っているだけだった。僕らの間にそれ以上の会話はなく、電車の走る音だけが僕らの沈黙を埋めていた。電車は走り続け、いつも通りに停まった駅で彼女は立ち上がり、「それじゃあ、また」と言って降りて行った。

 帰りの電車で彼女と話をするようになってから、もう一年以上も経つ。初めて会ったときの僕はまだ高校に入学したての一年生で、彼女は二年生だった。
 その頃から僕は放課後に学校の図書館へ入り浸り、閉館時間まで本を読んだり勉強をしたりしていた。クラブに所属せず、でも家には真っ直ぐ帰りたくない。僕は正体不明の敵から身を隠すような気分で放課後を図書館で過ごしていた。
 閉館時間を過ぎた後は真っ直ぐ駅に向かい、時刻表で一番近い一八時一九分発の電車を待った。程なく時刻通りに二両編成の電車がやってくると乗り込んだ。
 車内はがらんとしていた。僕と同じ制服を着ている人はいない。部活に入っていない生徒は授業が終わったら早々に帰り、部活のある生徒はもっと遅い時間の電車に乗るのだろう。この時間の電車は人々の時間の空隙を走っているみたいだった。
 僕は窓側のシートに一人で座っている女の子を見つけた。女の子は他校の制服を着ていて、文庫本を読んでいた。
 僕がドアの前で立ち尽くしていると、女の子は顔を上げた。
 目が合った。
 その時、僕は色んな事が一度に分かった気がした。きっと、彼女も同じように感じたと思う。僕らはちょうど暗闇の世界を旅する人工衛星のようだ。途方もなく孤独な宇宙を漂っていた僕らは、偶然に同じ惑星の周回軌道に乗り、邂逅した。僕らは同じ種類のレコードを持ち、同じ傷を伝えようとしている。
 彼女は僕の顔を見て、何もかもを承知したように頷いた。僕はそれを見て、彼女の隣の席に腰を下ろした。
 僕らはぽつりぽつりと話をした。孤独に晒され、悴んだ手を温めあうように、慎重に互いの持っている言葉を交換しあった。
「あなたは、何を目指しているのですか」僕は訊いた。
「たった一人の人間を、神にまで拡大すること」と彼女は答えた。
 それが僕らの出会いだった。

 今日も十八時十九分発の電車をホームで待つ。
 黄色い点字ブロックの内側で立っていると、あと数歩踏み出せば線路に落ちてしまうことを考える。線路に落ちて電車に轢かれたら、きっと死んでしまうだろう。でも僕が今立っている場所では、電車に轢かれることもなく、死ぬこともない。死は僕の数歩先にしか存在していない。やがて十八時十九分になり、結局僕は死ぬことはなく、いつも通り電車に乗り込み彼女の隣に座った。
 彼女の読んでいる本は昨日と同じものだったけれど、左手の親指で押さえられているページの量は目に見えて減って、右手の親指で押さえているページの量はずいぶんと増えていた。
 僕が暗記カードの不規則変化動詞を見ていると、横で彼女は息を吐き、本を畳んだ。
「読み終わったんですか」
「うん。前にも一度読んだことがあったけど、その時よりも読むのに時間がかかっちゃった」
「ひねくれ者の少年が出てくる話でしたよね」
「ひねくれ者、だけど嫌いにはなれない人だよ。だから二回も読めたの。君もきっと好きになったと思うな」
 彼女は読み終わった本の感想を僕に話してくれた。僕は読んでなくても、彼女の口から聞いて本の内容を知る。彼女の説明は上手で、まるでピクニックで見てきた風景について話すみたいに難しい本の内容も語ってくれる。
「話を聞いていると、悪いのは全部少年で、全て自業自得のように感じますね」
「うん、確かに少年の行動のせいで悪い結果になっている。けれど、これは本当に少年だけが悪いのかな。少年がいる環境も、少年の行動の要員の一つだと私は思う」
「それはどういうことですか?」
「環境、つまりそれが所属する社会に拠って、行動の良し悪しは異なっていく。価値観に置き換えてもいいと思う。だから、個人で自己を確立することは出来ず、価値観についても社会と呼ばれる大多数の意見に左右されてしまうものなんじゃないかな」
 僕は彼女の言っていることはよく分からなかった。でも、彼女の本の話を聞くのは好きだった。
 やがて電車は彼女の住む町の駅に停まり、彼女は降りて行った。一人になってからも僕は暗記カードを見ることなく、僕の降車駅まで彼女の話したことを反芻し、自分の中に消化しようと試みた。

 文化祭が近づいてきた。
 クラスの展示の準備のために、放課後も集まり展示物の作成にあたった。
 僕のクラスの展示はストリートアートとなっていた。僕は学校行事の展示にストリートアートは相応しくないと思うし、担任の教師も難色を示していた。
 企画を出したクラスメイトたちは最初は仲間内で盛り上がっていた。しかし、実際に学校の壁に落書きをすることには許可が下りなかった。妥協案として模造紙にストリートアートを描き、それを展示するということに決まったのだが、その頃の彼らには当初のやる気は見られなかった。結局企画者たちは準備を始めた二日目にはもう姿を見せなくなって、特に賛成も反対もしていなかった人たちが展示の制作をしている。

「替えのスプレー買ってきたぞ」
 そう言って遼吾は黒いカラースプレーを手渡してくれた。
「ありがとう」
「今はどんなのを作ってるんだ?」
 遼吾に聞かれて僕は描きかけのものを見せる。それは床に設置するためのストリートアートで、まずアスファルトの絵を描き、そこに大きな亀裂を描く。そして、その絵の上を歩く人に、絵の中の穴に落ちてしまいそうに錯覚させるというものだ。
「へえ、すごいな」
「まだまだ未完成だけどね」
 クラスで展示制作をしている人は、日によってばらつきはあるけど大体が十人前後だった。文化祭前で大会が近いところ以外は部活動が休止になり、遼吾もクラス展示を手伝ってくれている。
「ちょっと休憩しない? 一緒にアイス買ってきたんだ」
「でもまだこれ作りかけだし……」
「他にもサボってる奴らがいるんだし、お前がちょっと休んだだけで何か言う奴はいねえよ」
 そう言って遼吾は棒アイスの袋を渡してきた。僕はそれを受け取り、その場で座り込んで食べ始めた。遼吾も僕の隣に座って、同じようにアイスを食べ始める。
 齧るとがしっと音がして、頭に鈍く痛みが伝わる。その痛みが消える前に、がしっと次の一口。また頭痛の前兆のような鈍い痛み。そしてまた一口。
 僕はこの感覚が苦手でアイスは好きじゃなかった。アイスを食べている間、僕も遼吾も無言だった。
「なあ」先に食べ終えた遼吾が口を開いた。
「んー……?」
「当たったか?」
 僕はアイスの棒の先を見る。そこには何も書かれていなかった。
「ハズレた」
「そうか……」
 遼吾は立ち上がり、伸びをしながら言った。
「ハズレちゃったかぁ……」

 十八時十九分。いつもと同じ駅。いつもと違うのは、遼吾と一緒だということ。
 部活もなくクラスの展示制作が一段落した時点で帰ることにしたのだが、偶然この時間になった。時間をずらしたかったが、遼吾に変に思われるだろうし、そもそも僕には時間をずらす理由がない。どうして時間をずらしたいのか、僕にははっきりとしなかった。
 時間通りにやってきた電車に乗り込み、彼女の姿を認めた。でも今日は定位置となった彼女の隣へ座らずに、彼女の斜向かい。西日が直接当たるところに座った。彼女は僕が来ないことに気づき、本から顔を上げた。
 目が合った。
 僕は小さく顔を下げた。彼女も小さく顔を下げた。
「知り合い?」それを見ていた遼吾が訊いてくる。
「まあ、そんなとこ」僕は曖昧に答える。僕自身、彼女との関係ははっきりとしていない。
「もしかして、大崎の彼女?」
 僕は彼女のことを、彼女と呼んでいるが、きっと遼吾の言っている彼女とは意味が違うのだろう。僕の彼女はsheの意味 、遼吾の彼女はgirlfriendの意味。
「違うよ」僕は否定する。
「誤魔化すなよ」遼吾は深読みして追及してくる。
「あれって安芸女の制服だろ。よく知り合えたな」
 遼吾の言う安芸女はこの駅からずっと上りの方にある安芸女子高校のことだった。
 僕は彼女と何度も話をしたが、彼女が通っている高校は知らなかった。
 彼女はじっと本を読んだまま、何の反応も示さなかった。僕らの話が聞こえてないのか、聞こえてないふりをしているのか、僕には分からなかった。

 今日も十八時十九分発の電車をホームで待つ。
 黄色い点字ブロックから一歩進んだ場所に立ち、いつもより線路が近い。
 一歩分死に近づいた僕を、あと一歩、もう一歩と心の中の何かが急かす。
 試しに片足を線路の上空に置いてみた。すると、死が急に色を伴って僕の前に現れた。瞬間、僕は恐ろしくなって、慌てて足を引っ込めた。

 二十歳になった僕は、久しぶりにこの駅に立っている。僕は県外の大学に進学した。遼吾は地元で就職し、今は仕事で忙しくしているらしい。
 成人式のために二年ぶりに戻ってきたこの町は、何も変わっていなかった。

 僕はスプートニクに乗せられたライカ犬のように、惑星軌道を周回してその裡に摩擦して擦り減ってしまうだろう。

 その時、僕はどこまで進めているのだろう。

「もう、会えないと思う」
 彼女はそう言った。その声には何の感慨もなく、僕も不思議なほど何も感情の動きがなかった。
「二学期から進学のための補習が始まるから、もうこの時間の電車に乗ることはないと思うの。だから、今日で最後になるのかな」
 そうですか、と僕は返事する。帰りの電車の時間が変わる。それだけなら、会えない訳じゃない。僕が帰る時間を彼女に合わせたり、或は電車以外の場所でだって会うことはできる。でも、僕らはそんなことをしないって分かっていた。
僕らはちょうど暗闇の世界を旅する人工衛星のようだ。途方もなく孤独な宇宙を漂っていた僕らは、偶然に同じ惑星の周回軌道に乗り、邂逅した。僕らは同じ種類のレコードを持ち、同じ傷を伝えようとしている。
 ほんの偶然で同じ惑星軌道に乗った僕らだけど、互いに孤独の旅をしているということには変わりがない。僕らの孤独は続く。それはこの自然に出来た星たちの世界で、異物である人工衛星として生まれた限り、続いていくのだろう。
 駅に停まり、彼女は立ち上がった。
 さようなら、と彼女は言った。
「僕も……」僕は言う。
「僕も、宇宙をただ一人の人間にまで縮小してしまっています」
 彼女は最後に微笑んで、「私も、ただ一人の人間を神にまで拡大している」。
 そう言って、彼女は降りて行った。さよなら、彼女のフライ・バイ。そして僕の、スウィング・バイ。

 僕は僕の住む町の駅で電車を降りずに、そのまま乗り続けた。
 やがて電車は知らない駅に停まり、僕は乗り越し精算を行ってその駅の改札を通った。
 ロータリーでは暇を持て余すかのように運転手のいないタクシーが停まっていて、近くのマンションの公園からは子供がわんわん泣いている声が聞こえた。
 駅に併設されている複合ショッピングセンターに入り、その中の本屋を目指した。特にほしいものなどなかったが、とにかく本屋に行かなくてはならない気がした。
 当てもなく文庫本のコーナーを見ていると、一冊の気になる本を見つけた。タイトルは『夕焼け電車』。名前の知らない日本人作家の小説だった。
 僕はこの本の内容よりも、彼女はこの本を読んだことがあるのか。読んだのならば、その感想はどうだったのか。そんなことばかりが、気になってしょうがなかった。

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