「女っぽい」
先日、イオンでバッグを買った。在庫処分セールで1000円で売られていたショルダーバッグだ。紺色の軽いバッグで安いのもあり気に入って買ったのだった。
家に帰ってそのときのレシートを見ると、レシートの品名には「婦人用バッグ」と書かれていた。こんなバッグにも紳士用婦人用が分かれているものなのか。
小学生に入学してすぐのころに初めての二輪自転車を買ってもらった。それまでも三輪車に乗っていたが、補助輪を外して練習し自転車に乗れるようになっていた。その時に買ってもらったのが水色の自転車だった。車体が空のようにきれいな水色をしていて気に入ったのだった。
ぼくはその自転車に乗って友達のところに遊びに行った。すると、友人たちはぼくの自転車をみて「女子っぽい」と言った。その頃のぼくらにとって「女子っぽい」は侮りの言葉だった。たしかにかっこいい色ではないが、好きな色だったのでそんな風に言われて悲しくなったのを覚えている。きれいなものがくすんでしまう。自転車はその後も使い続けたが、どこか後ろめたい気持ちを感じながら乗っていた。四年生のときにマウンテンバイクを買ってもらって、黒くて大きなかっこいい自転車に乗り換えた。それを友達に見せたとき、自分のずれを修正できた気がしてほっとした。
中学生のときになにかでトートバッグをもらった。底が深くて大きなものを入れるのにぴったりなサイズだった。ぼくはそれを部活用のカバンにして、体操服とラケットをトートバッグに入れて持ち運ぶようにした。
ぼくがトートバッグを肩にかけながら歩いていると、同じ部活のメンバーがそのトートバッグを「女みたいだ」と言った。ぼくはトートバッグが女の人が使うものだという認識がなく、指摘されて使うべきではないバッグを使っていたのだと思った。トートバッグを使っていたことが恥ずかしくなってそれ以来使わなくなった。
ぼくが何気なく選んだものがそうやって茶化される経験が多かったので、いつからかぼくは素直に自分の好きなものをちゃんと好きだと言わなくなっていったように思う。
都会に出てきてからは男でトートバッグを使っている人なんて珍しくもないことに気づいたし水色が好きでも構わないと思うようになった。狭い社会のなかでは認められない好みなども都会ではすんなりと受け入れられる。多様性というよりも母数が多くて個々の細かな違いなどが気にならないのだろう。ぼくはその方が心が安らぐ。
今ではぼくは好きなものに対してわりと素直になった。昔は恥ずかしくて着れなかったポケモンのTシャツなんかも着て外を歩けるようになった。自分と社会のずれは依然として残っているだろうけど、それも埋めなくてもずれたままで生きていけるといい。素直でいられる今のほうが心地が良いんだ。
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