言語の本質について [小鵠の志Vol.1] 

まえがき

この度、高校時代の同級生山下と不定期更新で
エッセイを連載していくことになりました。
自己満足といわれればその通りかもしれませんが
お時間あるときに読んでいただいて
コメントや批判をしてくださると励みになります。
テーマは自由で、今回は哲学的なテーマですが
もっとポップなエピソードやテーマも
連載するかもしれません。
もし、いいテーマがあれば併せてコメントください。
「小鵠の志」という名前と背景については
名付け主の山下にそのうち書いてもらえることを
一読者として期待します。


言語の本質について


 
僕たちは小さい頃から言葉を学ぶ。
この日本語の記事を読んでくれる人の大半は
日本語を母国語としていると思う。
言葉はあまりにも身近であるがゆえに、その存在に無意識なことが多いが、
ふと考えることがある。

言語とは何か。

この問いには数多くの哲学者が対峙してきた。
現代でも有名なのはソシュールやヴィトゲンシュタインあたりだろうか。
コロナで学校に行けなくなり時間があった時、彼らの思想に惹かれ、
かなり影響を受けながら僕がもつ「言語観」をまとめてみる。

①言語が思考を規定する。

これはほとんどソシュールの「分節化」論のままであるから短めに。
モノが存在して我々が名前を付けるのではなく、我々がモノを「〇〇」として名付けることで、モノは「分節化」され、世界で存在を開始する。
ソシュール以前と以降で言語の捉え方は大きく転換するのももっともで
この考え方は最初は衝撃的で印象深い。
この説明は「分節化」だけで十分かと思う。
日本語に限らず、他言語も含めて名詞を覚えることは
自分の思考のスケールを広げることだと信じている。

②言語に「間違い」は存在しない。

「言語とは、AがBに情報を伝達する手段である。」 
辞書的な意味とほとんど同じだが、紆余曲折して僕はこれを言語の定義としている。
よく、「〇〇でよろしかったですか?」は間違った日本語として
紹介され、本やサイトでは「恥ずかしいミス」として指摘されている。

こういった記事をみるとき
指摘する側の方がよっぽど恥ずかしいなあと感じる。

言語は話し手と受け手の間での意思疎通ツールであり
そこには正解も不正解も存在しない。
ただそこにあるのは、「合意」だけであり
それが何よりも価値を持つ。

厄介なのは「文法ミス」である。
日本語では多少文法的なミスがあっても
だいたい単語で伝わってしまうことが多い。(EX.カタコト)

一方、外国語のなかには、文法ミスで意味が通じなくなることも多い。
意思伝達を不可能にする間違いは「間違い」としてよいと思う。
しかし、意味がお互い通じているのに、細部に目を当てて
「君の表現は誤っている。」
と指摘する行為に違和感を抱いてきた。
大抵そういうひとは、単語の由来や日本語文法に異常に精通している。

知識が心を豊かにすると普通は信じるだろうが
知識が心を阻害することも同じくらい起きていると思う。

自分で向上心を持って「間違い」に気を付けることは
大切なのかもしれないが、人の「間違い」を指摘するための知識にも
なりうることを認識しておいている。

こんなことを積み重ねて「言語に間違いはない」というスタンスになった。

③貨幣と言語の共通性

「貨幣」も最大規模の未解決命題であるが
この貨幣の存在条件「流通性」は言語の存続条件である。
言語は先述のように、人の意思を伝達する手段にすぎず、不特定多数の使用者がそれぞれの文脈で言語を「規定」する。
それゆえ、言語のニュアンスや用法(ここでは「言語の価値」とよぶ。)は使用によって変化する動的なものであり、静的に概観できるものではない。

貨幣も同じように、他の人がその貨幣を受け取ってくれるという信頼(幻想)によってその存在に価値が生まれる。また、その使用によって貨幣の持つ「価値」は常に動的なものであり、言語と類似している。
貨幣が流動性が失われれば、その貨幣の価値も同時に弱まる。
そういう意味で、言語も貨幣も消滅しうる儚い存在である。

このように貨幣を用いて考えて
言語は使われてこそ存在意義があり、動的なものであるから
間違いが存在しないどころか、正解すら分からない。

長くなってきたので、とりあえず未熟な19歳のつぶやきは
ここらへんにしておく。何年後かにこれを読み返して
恥ずかしさを覚えるだろう自分に
この先の答えは任せた。

ちなみに、人類以外の情報伝達するといわれる生物(ハチやイルカ類など)の情報伝達を言語に含めるかは未だに結論が出せない。

言語は死ぬまで付き合うことになるので
そのときまでに納得できる答えに辿りつきたい。
(2023.2.18  筆:渡辺)




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