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寂しい心

辛いことがあったのに誰にも心の内を伝えられない寂しさよりも
伝えられる相手が誰もいないと感じる心の方が寂しい。

実際に伝える相手がいるかどうかより、誰も信じられず心のうちを明かせないと感じてしまう方が何倍も寂しいことだ。
勇気を出して一歩踏み出すと世界は思っていたより優しいと感じるかもしれない。
しかし、踏み出す方向を間違うとズブズブと奈落へを引き摺り込む底なし沼が口を開けてるかもしれない。

こういった恐怖心を拭い去れないからこそ誰も信じられないのだろうか。
誰も信じられないからこそ、この種の恐怖心を感じてしまうんだろうか。

卵と鶏の話は有名だが、生物学的には卵が先だという。
こじつければ原因が先ということになるだろう。
つまりは、誰も信じられないことが原因ということになる。

だから底なし沼に沈まないためには誰かを信じることが必要で、信じる気持ちの足枷となる恐怖心は、こじつけでも何でもいいから自ら一歩を踏み出すことで軽くすべきと言えるだろう。

何でも伝えられる相手がいないなら、美味しかったものを教える相手を作ろう。
楽しかった出来事を伝える相手を作ろう。
綺麗な景色を教えられる相手を作ろう。

そこにきっと寂しさを伝えられる相手も現れるのだから。


卵が先か鶏が先か?論争は視点によって結論が異なる。ググってみるといろいろ出てくるのでお暇な方は是非。


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