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【プロ野球 名場面第13回】阪神タイガースの憂鬱(1988年)

1988年の阪神を語る前に、1985年の阪神について触れよう。
この年は阪神タイガースが実に21年ぶりの日本一に輝いた年だ。捕手は木戸、一塁手はバース、二塁手は岡田、三塁手は掛布、遊撃手は平田、左翼手は佐野、中堅手は北村(/弘田)、右翼手は真弓といった強力な布陣であった。30本塁打以上を実に4人が記録し、(バース54、掛布40、岡田35、真弓34)、幾分不安の残る投手陣を補って余りある豪華な打線だった。セ・リーグを制すに留まらず、日本シリーズではパ・リーグの覇者西武ライオンズを倒し、日本一を戴冠した。
その当時の打線の強さについて、象徴的に語られるのが4月15日の対巨人戦で、槇原寛己から、バース、掛布、岡田の本塁打3連発だ。槇原は青ざめ、阪神は大いに沸いた。
https://www.youtube.com/watch?v=1CEQKUqy42k

※密かに自白するが、実は最初に買った(買ってもらった)野球帽は、阪神タイガースのものだった。ファンというには浅く、まだ打率や防御率といった概念すらもよく分かっていなかったが、(小学校1年生なので)多分バースや掛布がスゴイ!となって、父に野球帽をねだったのだろう。その後、私は父の教育により、気づいたら西武ファンとして生きていることは何度かご説明してきた通りだ。

だが、阪神の栄光は長くは続かない。翌年1986年、チームの柱たる掛布は死球を受け骨折してしまい、長期離脱するとかつての打撃はすっかり影を潜めてしまった。バースは引き続き打棒を爆発させたが、岡田も少し成績を落とし、不安の残る投手陣は相変わらずで3位に終わった。また、更にその翌年の1987年は掛布が飲酒運転で逮捕というショッキングなニュースに見舞われる。頼みの綱のバースも含め、概ね主力全員が成績を落としてしまい、最下位に転落してしまった。また、バースと吉田義男監督の確執が表面化し、ついには公になってしまったことでバースは罰金を支払うはめになった。この年限りで吉田は退任してしまい、村山実が新たに就任した。
だが、負のスパイラルはなかなか断ち切れない。バースは長男の病気を巡り、阪神球団と激しく対立し(家族の治療費を球団が支払うといった趣旨の契約を締結したと言われている)、ついには6月27日に解雇されてしまう。そしてついには掛布もバースを追うようにこの年限りでの引退を決めた。33歳の若さであった。阪神は、好材料がないままこの年も最下位に終わってしまった。その後、阪神はBクラスで低迷を続けてしまう。浮上したのは1992年のことだ。また、その時のことは語ろうと思う。

さて、最後に掛布について語ろう。175センチと決して大きくない身体で元々は中距離打者、アベレージヒッターだったが、先輩田淵幸一が去ったあと主砲としての自覚を持ち、長距離打者を目指した。これだけの選手だったが引退が早かったのは、無理を重ねてきたからなのかもしれない。本塁打3回、打点王1回、ベストナイン7回、ダイアモンドグラブ賞6回は素晴らしく、「ミスター・タイガース」と呼ばれるに相応しい功績。球界全体を通しても、もしかしたら掛布を超える3塁手は未だ表れていないのかもしれない。(それより前の長嶋は除く)

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