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野村克也さんの訃報に触れて

プロ野球の選手、監督として数々の功績を残した野村克也さん(84歳)の突然の訃報。様々なことが頭をよぎり、書きたいことが山のようにあるがどうにも整理がつかない。その功績を振り返ると共に、筆者の個人的な思い出も交え、綴りたい。

■ 選手時代
幼少時代は女手一つで育てられ、貧乏な生活から脱却したいとの思いから学生時代は野球に打ち込んだ。京都の峰山高卒業後、テスト生として入団。
3年目から頭角を現し、1965年には戦後史上初の三冠王に輝くなど大選手への道を歩む。通算本塁打数は王貞治に次ぐ、657本。(図1参照)5歳年下の王に越されるまで、通算本塁打数の記録保持者であり続けた。(図2参照)
そんな大選手でありながら、当時パ・リーグは、セ・リーグに人気面で顕著な差をつけられ、自身の成績への注目度が少ないことを不満に思っていた。同時代に、人気球団で華麗に活躍するON(王・長嶋)と比較して、自身を月見草とたとえるなど、憧れとも嫉妬とも思える感情を覗かせている。ONへの強烈なライバル心はその後の監督時代を駆動させることにもなった。
また、南海時代に34歳の若さで選手兼監督も経験。やはり知力・体力を要する相当なハードワークなのだろう。次の選手権監督の誕生まで、古田敦也氏が2006年にヤクルトで選手兼監督に就任するまで30年を要した。

【図1:通算本塁打10傑】

図1:通算本塁打10傑

【図2:野村と王の本塁打数推移】

図2:通算本塁数の推移(野村と王)

■ 監督として
解説者として80年代を過ごした野村さんは、1990年に長くBクラスで低迷していたヤクルトの監督に就任。それまで広沢や池山といったスラッガーを要しながら勝てなかったチームにID野球(Important Data)を提唱、実践。スコアラーには、他球団選手のデータを収集させ、傾向と対策をまとめ、毎試合前に選手達とのミーティングを徹底的に行い、データを叩きこんだ。常勝西武に長く在籍した渡辺久信や辻発彦もこのヤクルトのミーティングには驚いたと述懐している。
最も薫陶を受けたのが、まだ若手捕手だった古田敦也であり、野村さんは彼を中心に据えたチームを作り上げた。また既に峠を越えたと思われる選手を再生させる手腕も発揮し(図3参照)、9年間で実に4回のリーグ優勝、3回の日本一を達成。黄金時代を築いた。
「再生工場」のポイントは、選手の特長をどう発掘し、自覚させ、活用させるか。スポーツだけに留まらないビジネスや人生における普遍性があるように思う。

【図3:野村再生工場案件リスト】

図3:再生工場案件

その後は阪神、社会人のシダックス、楽天の監督を歴任。再生工場としての手腕は健在だったが、阪神でも楽天でも優勝を経験することはできなかった。なお、2年前に逝去した星野仙一氏とは不思議な縁があり、野村さんの次に阪神の監督のバトンを渡されたのが星野氏であった。また、楽天の監督を退任した後はブラウン氏を経由して星野氏に再びバトンが渡されている。この二人の関係性を、野村さんが撒いた種を星野氏が実らせ、花を開かせたという見方がある。(図4参照)

【図4:野村克也氏の人間関係】

図4:野村克也氏の人間関係

■ 監督退任後
楽天の監督退任後は、解説者として健在で、「ボヤキ」で楽しませてくれた。相手の心理を読んだ独特かつ的確な視点で、試合展開を解説してくれた。

ヘッダーの写真は筆者の思い出のものだ。大学の野球サークルのOB会で野村さんをゲストとして招待し、予定を遥かに上回る(笑)1時間超えの熱弁をしてくださった。OB会後、私たち幹事は食事をご一緒し、そのときの記念の写真である。野球界への提言やここでは書けない個々の選手への見解や思いを聞けるまたとない機会に恵まれた。穏やかな中に矍鑠たる姿が印象的だった。この写真を眺めていると、あの時の語り口が蘇ってくるようだ。
伴侶を失ってから2年、やはり寂しく、段々元気がなくなっていたとは聞いていた。それでも最近のテレビ番組ではノムさん節は健在だっただけに驚きを隠せず、ショッキングだ。私たちはまだまだ「ボヤキ」を聞きたかった。それがもう聞けないのは残念だ。ONと並び、野村さんたちが築いてきた野球界。元号も昭和から平成、そして令和へと変わり、野球界も当時の資産に胡坐をかける時代は終わりつつある。改めて、野村さんは今の野球界に言い残したことはなかっただろうか。そんなことを想像するばかりだ。御冥福を祈る。


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