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【プロ野球 名場面第14回】10.19 死闘と残酷な結末 (1988年)

1988年のクライマックスは、パ・リーグの「10.19」だ。これは、語り継がれていくドラマだと思う。この年のペナントレースは、1985年から3連覇している西武が序盤から独走した。6月時点では2位の近鉄に既に大差をつけていた。9月中旬でも6ゲーム差であった。ただ、そこから近鉄の猛追が始まる。この時、既に「猛牛打線」というネーミングが定着していたかは定かでないが、1番セカンド大石、2番ファースト新井、3番レフトブライアント、4番DHオグリビー、5番ライト鈴木貴久、6番サード金村…といったように充実した布陣であった。特に、この年中日の2軍で燻っていたブライアントを獲得したのは大きかった。6月に合流すると34本ものホームランをかっ飛ばし、「ミスターツーラン」などと呼ばれた。投手陣も2年目の阿波野が既にエースの風格を漂わせ、小野和義、山崎慎太郎、村田辰巳としぶい先発陣が4人とも二けた勝利を挙げ、加藤哲郎や石本貴幸が中継ぎを担い、抑えは若き日の吉井理人が抜擢され、24Sを挙げ期待に応えた。こうやってみると、かなり充実した布陣だ。
さて、ペナントレースに戻ると、10月4日の段階で2位近鉄にマジックが点灯。そこから10月22日の日本シリーズに間に合わせるため、近鉄は実に13日間で15連戦という超過密スケジュールを戦うことになるのだ。そこから西武とのデッドヒートが続くが、西武は10月16日に全試合を終え、近鉄の動向を待つ立場となる。そして、運命の10月19日対ロッテ戦ダブルヘッダーを迎える。近鉄は優勝するためには唯一2連勝するしかない。この年、ロッテは最下位であり、チームの勢い的には十分優勝の可能性が考えられた。

いつもは閑古鳥が鳴く川崎球場にはぎっしりと観客が集い、この死闘を見届けた。
ダブルヘッダーの第1試合が始まった。この試合は、終盤までもつれた試合となり、近鉄が1点リードとした9回に吉井を投入し、逃げ切りを図るが、球審の判定に苛立った吉井はコントロールを失ってしまう。見かねた仰木は、2日前に先発完投していた阿波野を投入するスクランブルぶりで何とか逃げ切った。

その23分後に第二試合が始まった。序盤から仰木監督が審判の判定に文句をつけたり、死球を与えた選手に「休めばいいじゃないか」などとちょっかいをかけるなど、どうもきな臭い匂いがするゲーム展開だった。先制するロッテを近鉄が追う展開となり、取ったら取り返すエキサイティングなゲームとなる。近鉄は8回表に1点勝ち越すと、その裏連日救援の登板となる阿波野を投入した。が、高沢英昭に同点弾を浴びてしまう。阿波野はがっくりと肩を落とし、捕手のストレートの要求を断りスクリューボールを選んだ自分を悔いていると後に述懐している。そして、次のハイライトは9回裏、ロッテの攻撃だ。無死一・二塁で阿波野が2塁に牽制球を投げ、塁審はアウトを宣告。然し、この判定に納得いかない有藤監督は猛抗議。二塁の大石が走塁を妨害したというのだ。川崎球場には近鉄ファンの怒号が飛び交うも有藤は引き下がらない。実は怒号が飛び交うわけには理由がある。この当時の規定では、四時間を超えた場合次のイニングには進まないというルールがあったのだ。絶対に勝たねばならない近鉄は、引分けに終わるわけにはいかない。タイムリミットがないにも関わらず、最下位ロッテが抗議を続けているという図式が腹立たしく感じられたという図式だ。結局、判定は覆ることはなかったが、10分間に及ぶ抗議は近鉄の苦境を更に鮮明なものとした。後に仰木は「あの抗議はいかがなものか」と語り、有藤は「死球を与えたにも関わらず謝ることもなく、ひっこめという仰木は人道的に許しがたい」と述懐。仰木の振る舞いが有藤の執拗な抗議を生んでしまった言えるのかもしれない。
10回表近鉄の攻撃は、一死一塁でセカンドゴロゲッツーが決まり、敢え無く終了した。この時、既に3時間57分が経過し、事実上近鉄の1988年シーズンは終戦し、西武ライオンズの4連覇を達成。西武ナインは西武球場でこの吉報を聞いた。ロッテの10回裏の攻撃を近鉄ナインは無表情のまま、0点に抑えた。また、仰木監督は仁王立ちして、最後まで指揮を執った。この日、テレビ朝日のニュースステーションでは、球史に残る試合をニュースの合間で中継した。然し、神は見放さなかった。この悔しさは翌季、結実するのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=29RD6Pl-CDw
https://www.youtube.com/watch?v=DPfgXB2GSF8

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