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【プロ野球 名場面第19回】村田兆治通算200勝達成し、名球会へ(1989年)


前回の記事と少し順番が前後してしまったが、この年のトピックとして村田兆治のプロ通算200勝という金字塔には触れねばならない。
村田は、東京オリオンズ、ロッテ・オリオンズで活躍。1968年福山電波工高より入団。5月13日、20年余りにわたるプロ通算200勝を達成した。200勝の持つ意味、そして村田がどんな投手だったのか振り返りたい。

■通算200勝の持つ意味
通算200勝。とてつもなく大きな数字である。10勝したら先発投手として優秀と評される中、それを20年継続してようやく到達できる金字塔だ。球威、コントロール、フィールディングといった投手として必要な資質に加え、投げ続ける頑丈さ、打者との勝負に勝ち続ける研究熱心さ、学習能力の高さがないと到達できない数値だ。プロ野球の歴史は、約70年に渡るが、これまでの達成者は僅26人だ。
因みに、200勝を達成すると、名球会という組織に入会できる。先日亡くなったカネヤン(金田正一)が創始者であり、投手であれば通算200勝(後に通算250セーブも条件に加わった)、打者であれば通算2000本安打をクリアすれば入会できるのだ。プロ野球の普及や社会貢献活動を展開している。
因みに、村田が達成してから現代に至る約30年で達成したのは、北別府(1992年)、工藤公康(2004年)、野茂英雄(2005年)、山本昌(2008年)、黒田博樹(2016年)と僅か6人だ。これは、今と昔とで、野球の戦術は変わり、投手起用法は大きく変わったことが起因している。村田の時代は、現代のように分業制は確立されておらず、先発投手は完投することが優秀であるとされていた。従って、先発>リリーフの序列が明確であり、先発投手が試合の勝敗の責任を負うことが現代より圧倒的に多かったという背景は理解しておかねばならない。現代野球ではたとえ同点でもリリーフ陣に勝敗を託すケースが増え、200勝達成者は絶滅危惧種になりつつあるのだ。この村田の時代を盲目的に懐古し、礼賛するのは得策でない。かといって、野球が変質したから仕方ないと開き直るのも勿体ない。戦術の変化を抑えたうえで、この時代のエース達はどこが凄かったのかという視点から歴史を振り返るのも現代野球にとっては有益だと私は感じている。

■まさかり投法
村田の代名詞は、「まさかり投法」だ。左足を地面と水平に高く蹴り上げてから大きく踏み込み、右腕を勢いよく振り下ろす独特のオーバースローがいつしか「まさかり投法」と称されたのだ。力のあるストレートとフォークを武器に、常に力勝負を挑んだ。フォークボールの威力を増すため、更に深く握ろうと、人差し指と中指にナイフで切り込みを入れたというエピソードもある。奪三振に拘りがあり、ゴロはエラーする可能性があるため、奪三振が最も安全という哲学を持っていた。一方で、フォークの落ち幅が大きいことから、(捕手が取れず)暴投数が多い。実は日本最多暴投数保持者だ。
また、村田を語るうえで欠かせないのが右ひじ痛で2年間のリハビリ生活を行い、復活している点だ。当時メスを入れることはご法度とされていた中、今では珍しくない「トミージョン手術」を日本人としては事実上初めて受け、その後復活したことで、その後の投手寿命の伸張に寄与し、同じ境遇の投手に勇気を与えたという点は見逃せない。
また全盛時代は、南海の門田博光との力勝負は名物となり、晩年には若きスラッガー清原和博にも立ちはだかっている。そして、200勝を達成した1989年、39歳にして自身3度目の最優秀防御率を獲得した。
そしてその翌年、10勝を挙げながら40歳で引退した。先発投手として完投できなくなったことが理由だからという。当時の時代背景があったとはいえ、村田の自身への厳しさが現れた引き際だと感じる。そして、驚くべきは、70歳となった今も毎日1時間の筋トレを欠かさないのだという。始球式には時々登場しており、63歳のとき、130キロ代のストレートを放り、観客の度肝を抜いている。
https://www.youtube.com/watch?v=bTsXpUHBvxI
https://www.youtube.com/watch?v=gH2eILY31B8

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