語学論・日本の英語問題に蹴りをくらわす

 ジェリー(アメリカ人・ケンタッキー州在住、ロンドンで知り合いになった)が我が家に遊びに来ていたとき、一緒に東京見物にでかけて、Nのマンションに一緒に泊めてもらったことがある。Nは大学で同じクラスになったやつで、大学の頃にはよく会っていた。茨城県の山の村の秀才だったそうだ。山の村の秀才とは妙に気が合う。ずぼらだがテストの点はよく取れたらしい。Nと日本語で話し、ジェリーと英語で話しているうちに、「俺、なんで英語が話せるんだろう」と思い、Nにそう言った。Nは、それは俺に訊いてもわからないな、お前が自分でわからないと、というようなことを言ったように覚えている。Nはテストで点が取れたらしいのだが、私はテストではあまり点は取れなかった。公立の中学で、平均点よりちょっと多いくらいだった。
 高校に入ってからは、テストのために勉強することにいやなものを感じるようになり、テストが近づくと、「おい、ピンポンやろう」などと同じクラスの生徒に声をかけたりして嫌がられていた。私は、中間テストや期末テストのために勉強するということに反感を持っていて、なんで若い身空で、こんな風にテストなんかに飼われなければならないのかと思っていたので「放課後にピンポンやろう」などと言い出すのだ。同じクラスの連中からすれば、わざわざテスト勉強の邪魔をする悪い誘いなのである。私は邪魔をするといった程度のことを言った気はなくて、テスト勉強などというのは真底くだらないものだから、「やめちまえ」と言いたかったのである。邪魔するだの、テスト勉強のための時間を減らしてやるだのというちまちました意図はまるでなくて、きれいさっぱりやめちまえよというか、まるごと放り出しちゃえよというか、スッテンテンでいいじゃないかというか、そんな気持ちだったのである。テスト勉強なんか勉強じゃないというような漠然とした思いがあり、高校に通うこと自体にはっきりと嫌悪を持っていた。実際、学校へ行くのをやめて、千曲川の土手をぶらぶらしていた時期もあった。河原を歩いていて、どこかの学校のチャイムの音が聞こえてきたりすると、一人になってしまったことが身にしみた。
 高校三年の時、大学に行きたいと思うことがあって、なんでもいいからとにかく高校を卒業してしまおうと決めた。職員室の担任の教師の机を訪ね、「俺、この学校でどのくらいの順位なんですか」と訊いてみた。学年全体250人のうち、239番目だと教師は言った。
 教師が言ったのは、全教科で見て250人中239番ということだったのだが、英語も他の教科と同じように、もしかしたら、他の教科よりできなかったので、私の英語は高校3年の頃、知識面に限っても、きれいさっぱり低レベルだったのである。
 私が通っていた高校は、当時は受験校というのでもなかった。生徒の半分近くが高校卒業で就職していたのではなかったか。各種学校まで含めて、「高校の次の学校」に行くのは、世間で言う言葉で「ぶっちゃけて言えば」だが、「いい家の子供」だった。そして、私の育った家はいい家ではなかった。「いい家」の「いい」は、門閥の良さを言うこともあるが、それよりも単純に金の回りが「いい」、あるいは「金がある」ことを表すことは、誰もはっきり言わないだけで、暗黙の了解事項だった。
 私の家には金がない。私が長男で、下に高校生、中学生、小学生の兄弟が3人いた。母親は信州大学に行けと私に言った。当時は国立大学は私立に較べるとはるかに金がかからなかった。ずっと勉強などというものをやってきていないので、受験の教科数が少ないほうがいい。私は早稲田に行くと言った。その話を聞いて、父親は「どこにそんな金があるんだ」と言った。
 入学して金が続かなかったら、中退すればいいと思った。
 高校時代、テスト勉強をやめた。テスト勉強ではない勉強を探せないかと漠然と思っていた。大学受験だってテスト勉強みたいなもんだと言ってしまえばそうかもしれない。しかし、それでも違う。ある水準というものがある。それをわが身に実現するのは、テスト勉強ではない勉強をみつけることと同じだと思っていたのだ。
 高校の3年間は勉強に関しては空白だった。国語はなぜか点が取れたのでなんとかなる。世界史は半年で片付けると決めて、英語ばかりやっていた。一日15時間くらいやっていたことがある。
 Nがやった英語と俺の英語は何かが違う。Nはテストの点がとれたが、英語で話せない。私はテストの点はとれなかった。英語の中に生まれたのではないから、ネイティヴの英語ではないのは当然だが、話そうとすれば話すことが可能だ。英語で育った人が英語として受け取るものを使うことはできる。単に用を足すだけでなく、意見が違えば、脳みそに汗をかかせながらでも、その違いを言う。
 Nの英語と何かが違うことはわかるが、何が違うのかわからなかったから、Nのマンションでジェリーを交えて酒を飲んでいたときに、「俺、なんで英語が話せるんだろう」という一つの問いを口に出すことになったのだ。大学を卒業してどこにも就職せず、「素読舎」という英語の塾をやりながら、そのことをずっと考えた。

 語学だから、同じ文を繰り返して言うということは当然やるべきことだ。
 繰り返しが必要か不要かと問えば、誰でも、語学には繰り返しが必要だと答えるだろう。そこで私はしつこいのだ。「絶対に必要か」と、改めて自分に問うてみる。改めて問うてみても、絶対に必要だという同じ答えになる。
 英語だからというのではない。
 練習だから、だ。
 野球の素振りの練習は一回振るだけでいいなんて言う人はいない。
 空手の型の練習も一回やればいいなんて言う人はいない。
 そもそも、型の練習なんかでは、一回だけではおよそ型と呼べるものすら生まれない。
 繰り返しが絶対に必要なのであれば、それを「激化」すればいいじゃないか。そして、私が大学受験のとき、一人で編み出してやっていたのは、その「激化」というものだった。
 塾を始めてわかったのは、多くの生徒が、練習とは言えない程度にしか「激化」をやらないということだった。放っておけば、「激化」に至ることはない。圧倒的多数がそうだった。
 絶対に必要なものなら、「激化」するに限る。絶対に必要なものなら、激化する価値がある。
 私の語学論は、元はこういう単純なものだ。
 単純な原理を備えているかいないか。Nも私も、共に日本に在住のままであり、英語圏での生活の経験はない。それに関してはNも私も違いはない。しかし、Nの英語と私の英語を違うものにしたのは、「必要ならば激化する」という単純な原理の有無だったのだ。頭で記憶するのではない。同じ文を繰り返し口を動かして、動きそのものをなめらかなものにし、その感覚をイメージと一体化し、一体化されたものをさらに感覚にするのだ。その時には、意味は自然に伴うようになる。
 知識の記憶のレベルを超え、感覚にすることが、「繰り返しの激化」の眼目である。
 それを言葉で人に言えるようになったのは、40代になってからだった。
 Nの英語と私の英語を較べることなど、やりたくてやっているのではない。Nの英語とここで呼んでいるものは、今の日本で「英語問題」として様々に言われている問題と直結していると思うからだ。文部科学省も、財界も、産業界も、大学教員も、まともなことは何も言えていない。
 Nも早稲田に合格しただけの知識量は持っている。その量は私より多いかもしれない。しかし、大量の知識が、話す・聞く能力として起動しない。これが、日本の英語問題に底流しているものであり、それに蹴りをくらわすものが、(練習に繰り返しが)「必要ならば激化する」という単純な原理なのである。日本の英語問題のさまざまな論議にまるで欠けているものが、この単純な原理なのだが、それを云々するものを読んだことがない。昔、国弘正雄が少し言いかけただけだ。

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