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私観

私がここ数年で辿り着いた価値観は、私は私であるという実感を与えてくれる。それはあまりに現代を生きるには向いていなくて、資本主義からは外れていて、他人からは本当に幸せか疑われてしまう。

Instagramを眺める。

可愛い女の子が、一目見ただけでどうやら高級と分かるようなホテルの写真を載せている。アフタヌーンティーのソファにわざとブランドのロゴが見えるように鞄を置いて腰掛けている。

”Valextra”ってなんて読むんだろう。ホテルで風船用意するの大変そうだな。

また別の写真がサジェストされる。自分と同じくらいの大学に通う子が、東京タワーをバックにそれらしいキメ顔をしている。六本木のイルミネーションなんて毎年見られるのに。いつもの光景。

また別の写真。ディズニーランドのメリーゴーランドの前で女の子3人が並んでいる。この写真を撮るためにディズニーに来たのだろう。

しかし、そういう子のフォロワーは多い。そして顔も少し目や鼻をいじってそれっぽく加工して、かわいい感じである。そうか。みんなはこれがいいのか。

Twitterを見る。美容アカウントからデパコスや可愛らしいハイブランドの小物が可愛らしい絵文字と共に流れてくる。数千のリツイートといいねがついている。そうか。みんなはこれがいいのか。

そうか。みんな誰かが”良い”と言ったもの、それに巻き込まれた大衆がいいと思っているものが好きなんだ。それを追いかけているんだ。そこに自分の絶対的な気持ちなんてないのだ。SNSを眺めては、そんな分かりきったことを反芻している。

「なんで好きなの?」

この純粋な問いに自分の考えで答えることができる人は何人いるのだろう。

私は欲しいものもないし、顔もInstagramに映えない冴えない感じだし、流行を知った時には終わっているような人間である。

しかし、場所や周りに左右されずに自分の好きなものを追いかける。毎日のご飯は白米とお味噌汁が良いし、服はジーンズとスウェットが良いし、早くお風呂に入って寝たいし、寝る前はTwitterを見たり本を読んだりしたい。

数百万円する鞄より小説をゆっくり味わえる時間が欲しい。写真に残すような旅行の想い出より何気ない日常の嬉しかったことをたくさん思い出したい。流行っている店や味が保証された食べログの店より、散歩していて立ち寄る初めての店に行きたい。

自分の世界で自分の絶対的な価値観で生きている。だから淡々と同じ生活を繰り返すことができる。これは私が唯一持っている才能である。私の世界で、私の揺るぎない価値観で、膜に覆われながら社会から少し浮いて。

ただ、今を生きるには報われない才能だったかもしれない。