私たちは特別であり、特別ではないのかもしれない

「普通であることを肯定したい」という雑誌の見出しを見つけた。
普通とはなんなのか?という疑問もあるが、それよりも最近の「自分だけ特別」という感覚に違和感がある。
誰よりも早く、誰よりも安く…とにかく誰よりも得し、自分が特別であるかのように発信されている情報が溢れる中、自分を「普通」と位置づけ、それを肯定するということがどれだけ大切か。
オープニングパーティーに呼ばれただの、お得に買えただの、高見えだの…挙げればきりがないが、それがないと自己を肯定できない、そのままの自分を受け止め、そのままで良いと思えない人が多いということか。

SNSの中で何者かになりたがっている人たちも多い。
グルメ、ファッション、読書…最初は好きなものを自由に投稿していたはずなのに、いつからか"受け"(=いいね・フォロー)を気にするようになり、"受け"の良さそうな投稿ばかりするようになる。
SNSを悪者にする気はない。私も好きだ。
ただその世界で自分を「特別化」することで心は満たされるのだろうかと気になる。

有名な金子みすゞの詩。『私と小鳥と鈴と』「みんなちがって、みんないい」
大好きな詩だ。
生まれ持った個性が皆違っていて、それが素敵だ、という風に私は解釈している。
特別ではない、しかし皆生まれながらに個性がある。それを肯定していけたらどんなに素敵だろうか。

誰かを出し抜くとか、誰かより得をするとか、TOEICで何点とか…わかりやすい方法で自分を誇示する必要ってどこにあるのか?
そうやって誇示することで自己肯定感を維持するのだろうか。
私はそれよりも、信念がある、芯がある、心ある人が素敵に見える。
一見目立たない、いわゆる普通の人が話した途端とても博識で、信念があったりしたらとても素敵じゃないか。
そう考えると、最近コミュニケーションが極端に減っているから、わかりやすい形で自分を表現するようになったのかとも思う。
こんなに長々と書いて結局のところ言いたいのは、ひとは皆特別であり、特別でないということ。
誰かの特別で、誰かの特別ではない。
それでいいと思う。自分の好きな人から「特別だ」と思って貰えば、自分が自分を好きと言えれば十分なのだ。

2022.1.23 SHORTNOTEより転載

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