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「『あなたの心』」

あなたの心は
鳥のやう
涯のしれない
青空を
ゆきてかへらぬ
鳥ならば
私の傍へ
おくために
銀の小籠に
入れませう。

作詩 竹久夢二「青い小径」より

これは詩の話をする記事なので、おおむねいつも書いているようなわたしの心の内を零すものではない。
この詩が胸を焦がしてたまらない。そういう話だ。

この詩は大きく分けて3つの要素で書かれている。

鳥のようなあなたの心。
どこまでも続く大きな青空。
そして銀で出来た端整な小籠。

一見すると美しい詩なのだが、わたしはこの詩からとてつもない狂気を感じた。

ここからはわたしがこの詩の解釈を述べる項が連なるため、そうじゃないだろ!とお怒りになられたら速やかに退場してほしい。


まず、この詩には2人の人物が登場する。
「あなた」に詩を綴る者と、その詩を綴られる者だ。

”あなたの心は鳥のやう”

この一節から始まることで、読み手は様々な人物を思い描くことが出来る。
「あなた」を読み手とするも良し、「あなた」を読み手の想い人とするも良し。
はたまた読み手の全く知らない赤の他人でもいいだろう。
我々は一般的に自分以外の他人を呼称する時に「あなた」という言葉を用いる。
「自分以外の誰か」の心を「鳥のようだ」と表現している、これがこの詩に2人の人物がいることを明確にしていると言えるだろう。

ではこの鳥は、どんな鳥だろうか。

青空

なぜ書き手が「鳥のような心」だと表現したのか。
その答えを次の一節で示している。

”涯のしれない青空を”

この鳥は果てしなく広がる大きな青空を飛んでいる。
ただの空でなく、青空を、だ。
きっと雲一つなく突き抜けるような真っ青な空ではないだろうか。
何しろ書き手は、この空の果てを知ることが出来ないのだ。

そんな果てしない青空を飛ぶ鳥を想像してみてほしい。
わたしはトンビや鷹のように、上空の高いところをほとんど羽ばたくことなく流れるように飛んでいる、そんな鳥を思い浮かべた。

天高く雄大に飛ぶ鳥が、この果てのない空で生きている。
そう感じる。

ちなみに、作者が空の果てを「涯(はて)」と書き表した理由は分からない。
何しろ100年前に書かれた詩なので、当時はこの漢字をあてがうのが正しかったのかもしれない。
残念ながらわたしにそこまでの知識はないが、もし、この「涯(はて)」という字を「生涯」という単語に触れて選んだのだとしたら、わたしはますますこの詩を愛してしまう。

そして書き手はさらにこう綴る。

”ゆきてかへらぬ鳥ならば”

どこまでも続く青空をあなたの心が飛んでいく。
書き手は「人間」だ。
鳥のように飛ぶことは叶わない。
青空を飛んでいくあなたと同じ景色を見ることは出来ない。

ならば、どうするのか。

狂気

ここで最後の一節となる。

”私の傍へおくために銀の小籠に入れませう。”

これだ。

ここに至るまでにわたしが何度も繰り返し「青空を飛ぶ鳥」について長々とくっちゃべっていた理由が、この一節に全て詰まっている。

果てしない空を飛ぶ鳥を、
自分の傍に留めておくために、
銀で出来た小籠に入れてしまおうと、

そう言っているのだ。

わかるか、わかってくれ。
この傲慢さを。
この狂気を。

大空を自由に飛んでいた鳥を、小籠に閉じ込めようと言うのだ。
自分の元から二度と飛んで行ってしまわないようにするために。

書き手は、「あなた」がいずれ私という人間を忘れて、遠くへ去ってしまうことを恐れたのではないだろうか。

自らも同じく鳥になろうとはせずに。
空を飛ぶ鳥の明日を身勝手に許さずに。
ただ、私の傍に置いておきたいのだと。
果てしない空を生きるはずだったあなたを、私という1人の人間に縛りつけようと。

愛というのは傲慢だ。
特に人間の愛と呼ばれるものは、エゴそのものだと思う。

この短く美しい詩が、これほどの狂気を孕んでいることが、表現しがたいほどにわたしの心を奪うのだ。


蛇足

以上がわたしがこの詩に心を奪われてやまない理由だったのだが、こういう解釈に至った根拠もある。
根拠というか、裏付けというか。
これも説明すると「作曲家の解釈」になるだけなので、なんとも言い難い。

なので、わたしはこの詩を楽譜で読む前から上記の印象を受けていたことを先に断っておく。
作曲家と感受性が似通っているのかもしれない。

作曲家は詩の持つイメージを楽譜に落とし込む。
故に、その節に合ったハーモニーを様々な音楽知識をもって実現するのだ。

お見苦しい楽譜で申し訳ない、私物なので。
二箇所だけ抜粋して解説するのでまだ読んでいる人がいるのならお付き合いください。


わたしのそばへ × 3

3回も言う。
もう、確固たる意思。

音楽的なことを言うと、この3回全てリズムが違う。
「わたしのそばへ」のフレーズの中の「わたしの」の部分の話。

1回目は四分音符の4つ打ち
2回目は二分音符を3つに分けた三連符
3回目は付点四分音符+八分音符の裏打ち

何言うてるかわからんでもいい、とりあえずこうなっている。
要は音の長さの変化で、より言葉の圧をかけている、という構図だ。


臨時記号モリモリのワンフレーズ

臨時記号が付く箇所は音の雰囲気がガラリと変わる、というイメージでいい。
性質は違うが転調みたいなものだ。

写真の一番上の旋律がメロディーにあたるのだが、音符の横にやたらと臨時記号が付いている。

ここでこんなにガラリと音を変えてくるということは、
「銀の小籠に入れましょう」
このフレーズを何よりも印象付けたいからだと考えられる。
というか音楽知識的にそう、と言わざるを得ない。

この詩で最も思いが込められているのはこのフレーズなのだと、作曲家がそう言っているわけだ。

音楽の話が下手すぎる、わかる人にしかわからん説明をした。
note内で音を鳴らすことが出来れば良かったのだが、そんな機能はない。

音楽知識の話はここらへんでやめておきましょう。


わたしが心を揺さぶられた詩がこの世には多く存在する。
眠れぬ夜があったら、またなにか別の詩の話をし始めるかもしれない。

それこそ、Twitterにピン留めしている「ゆびきり」の話をしてもいいのかもしれない。
これも相当なエネルギーを秘めた詩だから。

比翼


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