『1917 命をかけた伝令』が全編ワンカットではなかった理由について考える
ネタバレです。
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日本では当初「全編ワンカット」と宣伝されていた。これは誇張である。全編ではない。ワンカット風の映像は、前半で主人公スコフィールドがドイツ兵に撃たれて失神した後、数秒間の暗転が差し挟まれることによって明確に断ち切られる。そして後半、川に流されたスコフィールドが滝つぼに落ちるシーン。カメラは画面いっぱいに映った水面だけをまた数秒間映す。ここもわたしたち観客にとってわかりやすい「継ぎ目」になっている。
長回しの映像をシームレスに繋いで最初から最後まで完全なるワンカットのように見せることは技術的に可能だったと思う。ではなぜそうせずにわかりやすい「継ぎ目」を設けたのだろう。それはこの映画が三幕構成になっていることを明確にするためじゃないだろうか。
第一幕は冒頭から暗転まで。
第二幕は暗転から主人公スコフィールドが滝つぼに落ちるまで。
第三幕は滝つぼから浮かびあがる場面からラストまで。
なぜ三幕構成にしたのか? それは、第二幕のみ、物語が繰り広げられる舞台が異なるから。その舞台とはあの世だ。銃に撃たれて主人公は現世を離れ、死者の世界に迷い込んでしまったのだ。
第二幕はドイツ兵に撃たれて失神していたスコフィールドが覚醒する場面から始まる。真夜中であるにも関わらず辺りは真昼のように明るい。彼の目の前には破壊された街が闇の中に白々と浮かび上がっていた。奇妙に現実離れしたその光景は、聖書を題材に崩壊する街や建物を幻想的に描いた17世紀初頭の画家、モンス・デジデリオの絵画のようだ。スコフィールドは廃墟と化した街の中を兵士に追われて逃げまどう。スコフィールドを追う兵士の顔は闇に塗りつぶされて見えない。廃墟パートがあの世なら、兵士たちは幽霊のはずだ。生者を黄泉の国に引き留めようとする死者たちだ。
スコフィールドは地下に逃げ込み、そこで一人の若い女性と出会う。見ず知らずの赤ん坊の面倒を見ながら身を潜めている。当然、どっちも幽霊だ。
若い女性はスコフィールドが去ろうとすると「行かないで、ここにいて」と引き留める。「初対面の男をあんなにすんなり受け入れたり引き留めたりする女がいるかよ」という感想(主に女性によるもの)を複数見た。もしこの女性が生身の人間ならわたしもまったく同じ感想を抱いたと思うけど、彼女は幽霊だ。スコフィールドを殺そうとする兵士の亡霊と同じ、生者を黄泉の国から逃そうとしない死者の一人だ。でも怖いというより悲しい感じがするのは、彼女は自分が死んだことに気づいていないんじゃないかと思うから。死んでなおドイツ軍に怯えて隠れなきゃいけない。名前も知らない赤ん坊を一生懸命守りながら。
スコフィールドは命からがら逃げ延びる。川に落ちて押し流され、この世に帰還する。スコフィールドが合流する軍団の兵士の一人がヨルダン川云々という歌を歌っていたが、スコフィールドが流された川もまたヨルダン川なのだと思う。この世とあの世を分かつ三途の川だ。
しかし、スコフィールドは本当には帰ってこられなかったのかもしれない。終盤、撃たれるリスクもいとわず塹壕から飛び出して走るスコフィールドに自らの命に対する執着は見られなかった。死者の国に魂を半分置いてきてしまったのかもしれない。
第一幕、第三幕での徹底的なリアル路線と対照的に、第二幕は幻想的・超現実的なものだった。主人公が潜り抜ける戦争という名の地獄は肉体のみならず精神をも深く傷つけるものだ。その悲劇を語るにあたり、このような精神的な場面を挟むことには大きな意義があったと思う。