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ただ石原慎太郎への批判が許せないという人たちによる追悼

石原慎太郎の逝去に際し、彼の生前の行いを批判する流れがありました。私は詳しくは知らない人間なのですが、彼はあらゆるマイノリティー(少数派だったり権力関係で下位の属性の人。女性、障害者、黒人など…)に対し攻撃的で暴力的な言説を撒き散らかしていたようです。また彼が体罰肯定派だったという事は私もTwitterで流れて来た彼の過去の講演の案内を見て知りました。彼は色々と批判的に見なければいけない人間のようです。
そんな逝去時の批判の流れに対し、「死者を悼む気持ちが無い」「不謹慎」と言ったカウンター批判の流れも出ていました。

ですが、弔意を示している一方で石原氏への批判をしているこのツイートに対しての反応は、「死者を悼む気持ちが無い」「死者に鞭打つな」といった1mmも変わらないカウンター批判の大合唱。
「ご冥福をお祈りします。ですが彼の生前の行いは忘れてはいけません」
こういう意味のツイートであっても、弔意を示せだの死者に鞭打つななどと言われるという事のようです。弔意を示し死者に鞭打ちたくない彼らはどうやらその事を一切の批判をしない事だと解釈している、したいようです。それはどんな人間でも死者になれば批判を寄せ付けない英霊となるという事でしょうか。私はそれはおかしいと思っています。この問題は単純に死者に鞭打ちたくない彼らに石原の悪行が共有されていない事です。
石原が生前何をしていたか、どんな人間だったか、知っていればそれに批判的になるのはごく当たり前のことです。その極めて真っ当な感情にさえ共感出来ない人々が死者に鞭打ちたくない(と口では言っている)人々なのです。むしろ水を差しているのは彼らの方と言えます。

それに死者に鞭打つなという言葉が本心のものか極めて怪しい、いやほぼ建前であろうという事が判明する話も出てきています。

他にもツイートしている方がいるかもしれませんが、死者に鞭打つなという彼らの主張が極めて怪しいものである事が分かります。

要するに彼らは気に入らない死者には言葉を翻して鞭打つ人々だと言えます。まあいつものネット上の落書きですね。このように質が低く信頼に値しません。ネット上の批判はこの程度のもので溢れ返っています。Twitterが変わっても人間は変わりませんね。

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