見出し画像

「勉強と感情の振り子」

私は勉強で揺れる人生だった。

中学までは勉強がからっきしで、テスト二週間前になると親が野球部の練習に参加することを禁止した。他の先輩や同期が野球がうまくなっていく中、私だけひたすら嫌いな勉強と二週間向き合い続ける。

元々ほぼ初心者で中学から野球を始めた私にすれば、「小学校から野球経験のある部員に早く追いつきたい」とその一心で一分一秒でも野球の練習がしたくて焦り、はやる気持ちがあった。そのため、勉強を恨む気持ちはなかったわけではない。

それなのに、勉強の成績は良くて中の上で、平均八十点が中学三年間で最高だった。普段は平均七十点代を行ったり来たりしていた。

野球部員からは「二週間練習をサボっているのに、その点数かよ」とバカにされてばかりだった。同期にはそれなりに野球がうまく、勉強もできる器用な子がいて、テストの話をするたびに鼻で笑われた。

私の性格は真面目一徹で、授業は眠らずに真剣に聞くし、宿題も期限をきっちりと守り、やりとげて提出する。「バカ真面目」なんて周りの生徒からはささやかれていたが、成績はその真面目さに比例しない。悔しくて、勉強では感情が激しく左右されてばかりだった。

中学三年生になり、今の成績ではまともな高校には進学できないことが家族会議の話題に上った。今までも親に提案されていたけれど、頑なに拒否していた学習塾に通うことになった。

しかし、勉強で味わう苦虫を噛む経験はここから加速した。

入塾テストは、得意な数学と、教室に通っていた経験がある英語。そして大の苦手な国語の三教科だった。数学と英語はぎりぎりでなんとか合格した。しかし、国語だけは合格点にははるか遠く及ばなかった。再度国語のテストを受けても歯が立たなかった。

その状況を見かねてか、当時の塾長が国語で出題される漢字問題をすべて電話口で教えてくれた。

「この期待を裏切るわけにはいかない」

三度目の国語のテストまでは二日しかなかった。この二日間はずっと出題される二十問の漢字の読みと熟語を覚えるのに必死だった。

暗記がとにかく苦手な私は、何度も紙に漢字を書き出して覚え、ことあるごとに何度も目に焼き付けて、音読もして、覚えるためのあらゆる手段を使った。

そして迎えた国語の再々入塾テストには手ごたえを感じた。国語でこれまでできた感触は今までになかったほどだった。

しかし、一週間後に自宅にかかって来た電話は、私の人生を大きく左右する。

母から受話器を受け取ると、低く落ち着いた塾長の声が聞こえてきた。

「入塾テストの結果ですが、惜しくも合格点に達しませんでした」

あれだけ全力で勉強したのに、驚きよりも落胆の方が大きかった。自宅近くにある有力な塾はここしかない。他の塾を複数体験したが、自分に合うところはなかった。

国語の大きな壁で自分の将来が押しつぶされて身動きできず、私の受験が国語に阻まれた。中学三年生にして、路頭に迷ってもがく経験をした。

でも、塾長の言葉はまだ続いていた。

「私が伝えた漢字問題は全問正解していました。この真面目さを買って、入塾を認めます」

奈落の底から一気に救われた気分だった。首の皮一枚でつながった状態でなんとか入塾を果たすことができた。勉強によってマイナスに振り切っていた感情がプラス側に振れていく。

学習塾には、成績の良い順番でAクラスからⅮクラスの四クラスまである。ぎりぎりで合格した私はもちろんⅮクラスで、Ⅾクラスにはそんな勉強が苦手な子が集まっていた。

「なんとか入塾できたし、一念発起して高校受験はがんばろう」

そう決意した矢先だった。
入塾した初の授業は国語だった。慣れない塾でテキストと新品のノートを広げて待っていると、颯爽と教室のドアを開き、甲高い声で黒ぶち眼鏡をかけた黒いスーツ姿の塾長が入ってきた。か細い顔とほっそりとした体型に似合わない威厳が感じられる。塾が初めての私に説明でもするのかと思っていたら、点呼を取り出し、そのまま授業に入った。

「よりによって一番苦手な教科の先生が塾長か」

かなりの不安があった。これまで勉強でバカにされ、痛い目を見てきたが、本当に勉強で苦しむのはここからだった。

塾長は学生の回答をイジることが得意で、隣のクラスにいても塾長のイジリでクラスの笑い声が聞こえるほどだった。お笑い番組でおバカタレントの珍回答を笑いに変える芸人さんと同様のスタイルだ。

初めての塾で、初めての授業で、大の苦手な国語で、担当が塾長。
勉強の悪魔が示し合わせたようなタイミングだった。不安は一気に現実となり、初めて塾長に当てられて答えを言うときは声が震えた。どんなに真剣に考えて真面目に答えても、正解に近づかない。私の回答をイジリ倒す塾長の腕が冴えわたり、クラスは爆笑の渦に飲み込まれていく。

「君が来てくれて良かったよ。こんなにも授業が面白くなったのだから」

と皮肉交じりに言われたこともあった。勉強でマイナスな感情に振り切って、振り子が壊れそうな状態が半年ほど続いた。

しかし、私は塾の授業を通して、みるみる成績が上がっていった。社会や理科では先生に一目置かれるようになり、英語の点数も学校の定期テストで高得点を取れるようになった。得意な数学は塾の全クラス共通テストでAクラスの人よりも点数が高かったこともあった。

当時数学を担当していた女の先生は、全クラス共通テストが終わり、すぐに丸付けをしたらしく、私が廊下で他の塾生とたむろしているところに走ってきて「あんたすごいやん!」と背中をパーンッと叩かれ、褒められたこともあった。

そして、秋から冬と季節が進むごとに、入塾初期と比べて国語の正答率も上がっていく。しだいに塾長のイジリも少なくなり、なんとなく寂しそうな塾長の背中を気にしていたほどだった。

ある冬の日曜日に、Ⅾクラス全員で同じ問題を解いて点数を競い合う演習の授業があった。私の友人で国語が得意な人もいる中、いったい自分の実力はどの程度なのか気になっていた。

いくら大の苦手であっても、入塾時に比べたら国語に関する知識と経験はたくさん蓄積されているはずである。塾長の「はじめ!」の合図で一斉に問題を解き、「終わり」の合図で問題と向かい合うことをやめる。

その後、休憩時間を挟み、塾長が答えを解説しながら自己採点で丸付けをする。選択問題や漢字問題は配られた解答用紙を参考に自分で丸つけをし、その他の文章題の記述問題を塾長が解説していく。

「この問題では、Aという回答は五点、Bという回答は三点、Cは一点」

と記述問題の配点を言いながら自分の回答と向き合う。

その時「この回答は何点ですか?」と私は勇気を出して質問した。自分の回答が塾長が言ったAにもBにもCにも当てはまらないと思ったからだ。それでも、私の回答は全く的を射ていないとも思えなかった。

「その答ええええ?」

と塾長は大きな声を出した。クラス中が静まり返って、いつもの塾長のイジリモードに入るかに思われ、私は身を構えた。

しかし、

「その回答は二点」

と塾長は眼鏡の奥から鋭い眼光で答えてくれた。
今日だけはイジる対象ではなく、一人の受験生として扱ってくれたような気がしてうれしかった。解説後、自己採点が終わり、点数と名前がランキング形式でホワイトボードに記されていく。国語が得意な友人もこの問題には苦戦していたらしく、点数は高くない。私が点数を言い、クラス全員の点数が出そろったとき、驚きの声が上がった。

あれだけ国語が苦手で、塾長に笑いのネタにされていた私がトップの点数だったからだ。この奇跡に、塾長も「おぉ!すげー!」と声が漏れていた。

この瞬間は、国語の苦手意識が少しだけ克服された時だった。秋までマイナスに振り切っていた振り子は、プラスへと針が徐々に進んでいき、この瞬間に大きくプラスに傾いていた。

二月に専願で受けた私立高校は、特待生で合格した。今までの勉強の苦労や先生からのイジリやしごきがすべて報われた瞬間だった。通知の封書を開けて、「特待生」の文字を見た家族は大喜びしていた。

中学の担任に報告に行った後、真っ先に塾長に知らせたかった。はやる気持ちで小走りになり、いつの間にか塾まで全力で走っていた。

息を切らして塾の扉を開けると、不思議と私と塾長しかその空間にはいなかった。講師室にいた塾長を呼び出し、「特待生で合格!」の書類を見せつけながら、感謝の気持ちを伝えた。塾長は「よくやったな」と言ってくれて、一緒に喜びを共有できた。その後、私は講師室に戻る他の先生にも合格を伝えた。

一通り担当の先生に合格のお礼を伝えて、仲の良い先生と談笑していたところ、塾長が授業で講師室から出てきた。何気なく見送って、そのまま教室に向かうのかなと思った瞬間、塾長に肩をバンッと叩かれた。

「君は伸びる」

そう言って、塾長は颯爽と教室へと向かっていった。今でもあの時のかっこいい後姿は憶えている。

塾長の言葉に背中を押されて、高校では定期テストで学年一位二位を争うほど勉強ができるようになった。特に数学は相変わらず得意で、常に百点を目指して試験に臨んでいたほどだった。

しかし、勉強ができるようになると変な現象も起こることがある。
定期テストが終わると各教科の授業の一回目にテストの結果が返却される。私の本名は五十音順では後ろの方だった。当時高校三年生の時は、自他ともに数学のライバルと呼べる女生徒がいた。彼女は私よりも五十音順では前であり、彼女が先にテストの点数を知ることになる。その点数より上なのか下なのか。どちらが一位でどちらが二位なのか。いつもクラス中をはらはらさせる恒例の一大イベントだった。別にその子とは仲が悪いわけではなく、むしろたまに話す方で仲は良い方だと私は思っている。私たち本人にとっては、こんなテストの点数比べははた迷惑だったが、意外な奇跡も起きることがある。

高校三年のある定期テストでは比較的簡単なこともあり、数学では百点の手ごたえを感じていた。テスト結果の返却時、その女生徒が先にテストを受け取り、当然その子は百点でクラス中が喜びで沸いていた。すると、なぜかその子は私の方を向き、

「君も百点やで」

となぜかテスト返却前に私のテストの点数を言い出した。クラス中は爆笑の渦に包まれたが、当の私はせっかくの百点の喜びが半減して微妙な心境だった。自分の名前が呼ばれて、返却されたテスト用紙は本当に百点だった。

今でこそプライバシーの問題が取りざたされ、個人情報保護の観点からはありえないことだけれど、なぜか私が知るより先に私のテスト結果に詳しい生徒が二~三人存在していた。

高校一年生の時の理科のテストも「お前は百点やで」と急に友達に言われて驚いたこともあった。高校三年間特待生を維持しているとある意味目立つ。何か傷つけられたわけではない。テストの点数を知られることに文句を言うのも野暮なのでそっとしておいた。しかし、この噂は後に私を大いに苦しめることになる。

高校三年生の大学受験期に入った頃である。学年トップを維持し、学校で一番上のクラスである国公立クラスに所属していると、自然と京都大学や大阪大学などの難関大学を志望校として目標に掲げる。

当時私が所属していた国公立コースは新設のコースで、私が第一期生になる。京都大学は文系では受験科目として社会を増やさないといけないが、まだ新設で制度が整っていなかったため、学校ではカバーしきれない。あるテレビドラマの影響から心理学を勉強したくなり、大阪大学で学べる学部がちょうどあったことから、大阪大学を志望校として目指すことにした。

一日十時間以上もの時間を勉強に当て、休みの日はなく、移動の電車内でも英単語帳を開いていた。学校のテストは学年で一位二位をキープしていたが、なかなか模擬試験での成績が上がらない。

「学年でトップなのに、模試では実力が発揮できない」

学校トップの噂が仇となり、自分を苦しめていた。学年トップの意地や先生と親の期待が悪い方向に働いているような気がして、心はボロボロになっていた。

結局、当時のセンター試験で失敗し、大阪大学を受験することすらできなかった。さらに、滑り止めで受けた私立大学にもすべて落ちてしまい、マイナスな結果に追い打ちをかけられ、高校以降の進路が絶たれてしまった。

推薦入試で公立大学に受かる生徒も出てきて、さすがに焦りもあった。「学年トップ」というのは、本当は喜ばしいことなのに、人の笑いの種に見えて仕方がなかった。高校三年間特待生で、プラスに振り切っていた振り子は、大学受験の失敗で一気にマイナスになった。

進路未定の卒業式では、泣くことはできなかった。クラスメイトやお世話になった先生との別れより、自分のことで頭がいっぱいだった。

そのため、次の年からは予備校に入って浪人生活を余儀なくされた。予備校生活は苦しかったけれど楽しかった。受験のストレスで自律神経失調症になり、膀胱炎でトイレが近くなった。クラス担任にトイレに近いドア前の席に配慮してもらいながら、勉強に励んだ。

予備校に入って高校と違うことが一つだけある。それは、先生を利用することだった。英語・国語・歴史の記述問題や訳出問題などは、ほぼすべてその担当教科の先生に頼み込んで添削してもらっていた。

おかげで、成績はかなり上がり、浪人から新しく社会の科目を増やして京都大学を目指すことにした。またもやセンター試験には苦しんだが、幸いにもあまりセンター試験の点数が合否に反映されにくい学部だったので、足切りには引っかからず、二次試験を受験することができた。

試験当時は曇りで、若干雨がパラついていた。私は自分の精一杯を出し切った。病気故なんども試験中にトイレにいったけれど、集中力は切らさずに試験問題に向き合えた。得意の数学もできた感触があり、二年間の受験生活をやりきった。

合格発表の日。
その日は晴れだった。家から京都までは遠いので、お昼に京都大学で合格番号が貼られている掲示板に向かった。

昨年は志望大学すら受験できない悔しいありさまで、一人だけ進路が未定のまま高校の卒業式を迎えた苦い過去が彷彿とする。今年は、特待生で合格した私立大学と、オープンキャンパスに参加してもともと志望度の高かった私立大学に合格していた。

「今年は違う」

そんな期待が、躊躇していた私の足を掲示板へと向かわせた。自分の受験番号を見ながら掲示板を指さして探す。指が震え、緊張感で頭がいっぱいで逃げ出したかった。

結果、私の番号はなかった。

でも、不思議と悔しさも落ち込みもなかった。感情の振り子はゼロよりの負。私は、特待生で受かった私立大学を蹴って、志望度の高い私立大学で心理学を勉強することに決めた。

志望度の高い私立大学では、大の苦手だった読書を始めた。

「大学はお金を払って、勉強しに行くところである」

そんなこだわりというか固執した考えが私の中にはあった。また、予備校で仲良くなった先生におススメされた本がたくさんあったので、私はまずはそれらの本を読破することを目標にした。

大学一年生の夏には、「そんなに難しい本を読んでカッコつけているの?」と同期の子に揶揄されたこともあったけれど、そんな意見に動揺せず勉学に打ち込んでいた。心理学の教科書や専門書はもちろん、元から興味があった哲学・社会学・歴史、そして科学の分野全般に関する多くの本を古本屋で購入したり、図書館で借りたりして、読書にふける毎日を送った。

その副作用なのか、ある時母親に「あんた。もっと遊べ!」と注意されたこともあったが、私は勉強するのがとても楽しかった。

大学一回生の冬に大学生活を変える大きな出来事があった。たまたま取っていたある講義の終わりに友人に呼び止められた。

「面白い先生がいるんやけど、その先生と一緒に昼ご飯を食べに行けへん?」

これぞ大学のだいご味である。研究の最前線にいる研究者と個人的に知り合いになることができる。私は二つ返事で了承し、すぐに友達に頼んで先生の元へ連れて行ってもらった。

初めての准教授との昼食会は緊張感があった。普段講義で多くの学生に教壇で難しい話をしている先生を前に、何を話せばいいのかわからなかった。講義の質問をすればいいのか?学問の話をすればいいのか?プライベートな話をすればいいのか?笑える話をすればいいのか?

人見知りで緊張しいの私は、友人と三十代後半の准教授が楽しく話している最中で余計に話すタイミングを失っていた。友人が空気を読み、私を他己紹介してくれたけれど、その時は「単なる一大学生」以上の印象は准教授に与えられなかったと思う。

それでも私はほぼ毎週友人と一緒にその准教授の元に通うことで、仲良くなり、信頼も築けて、だんだんとフラットに話せるようになった。この行動が噂になり、昼食会に参加する学生が徐々に増えていった。

そんな時期に、

「君がリーダーになって、このメンバーで勉強会サークルを作ろうか」

と准教授から提案があった。
私はリーダーの重圧を感じながらも、心が躍った。私自身、大学で勉学に打ち込む優秀な学生仲間が欲しかったと常々感じていたからだ。その後も、十人二十人と人が集まるようになり、メンバーが他の学生を連れて来たりと、昼食会で椅子が足りなくなるほどにまで大きくなった。人数も大所帯になってきたので、お互いの問題意識と勉強の成果を発表し合う勉強会をサークル内で行うこともあった。

勉強会を複数会成功させ、准教授もご満悦であった。すると、

「私が作った学会と共催で、学術発表会を開かないか?」

と提案があった。
他大学の学生も一般人も参加できるイベントの規模に、一瞬圧倒されかけたが、私はとてもわくわくした。

何か月も前から主要メンバー数人と話し合い、学術発表会の全体テーマを決め、私自身司会進行と発表の両方の準備に励む。こんなにも充実した勉強ライフがあるだろうか?

私の感情の振り子はプラスに振り切っていた。学術発表会は無事に成功し、メンバーと准教授との間には強い絆が生まれていた。

しかし、大学三回生の春に事件が起こる。リーダーである私が、ドイツ語の先生との個人レッスンで昼食会に出られなくなり、昼食会の場が荒れるようになった。昼食会には副リーダーやその他の信頼できるメンバーがいたのに、「君がいなければ場がしまらない」と准教授に言われる始末にまでなっていた。

「私は昼食会をやめようと思っている」

准教授からのメールを見た私は、直接昼食会に介入する時間はない。それなら、有志だけで集まって准教授抜きで別グループの昼食会を続ければいい。私は信頼した仲間二人の助言を得て安易にそう考えていた。

しかし、その案は准教授に却下され、メンバーにも響かず、私の電話に直接抗議をしたメンバーも現れたほどだった。後日、准教授と話し合い、謝罪をする。

「別に私は今回のことは気にしていない。けれど、君がしようとしたことはこれまで築き上げてきた会への裏切り行為に値するよ。私は、君が来られない昼食会をなしにすることで、君への負担を減らして、定期的な勉強会だけに絞ろうと思っていた」

その准教授の言葉を聞いた途端、私はジーンとした何かを感じた。自分の軽率な行動がどう他者に見えるのか、他者の言動の些細な意味など、すべてに気を配るようになった。

「今回の件は、君の勉強不足でしたね」

後日、教授からいただいたメールにはそう書いてあった。大学生になって真剣に反省したことの一つである。勉強に励んできた大学生活への皮肉でもあり、私は周りが見えていなかった。

その騒動後の夏、私は将来的に研究者を目指そうと漠然と思った。心理学が好きであり、研究することに非常に興味を持ち、大学院に行きたくなったからだ。自分の研究テーマと合う研究室がある大学院の一つが、たまたま京都大学だった。

大学受験で落ちて以来訪れた京都大学は、相変わらずだった。自転車をビュンビュン飛ばす学生に、急進的な内容の立て看板。私は来年受験する研究科の過去問をコピーしに図書館に訪れた。その時にチラと見えた過去問に、私はこう思った。

「簡単じゃね?今でも解けるんじゃね?」

どうせ来年院試を受けるのだから、お金はかかるが練習がてら今年受験することに決めた。幸い、京都大学の院試要項には、一定の単位数を取得し、成績が良ければ、院試を受験できることが記されていた。私はその条件をクリアして、この夏の終わりに院試を受けた。

結果は、合格。

次の年は、大学四回生ではなく、大学院修士一回生に飛び級入学することになった。勉強の感情の振り子はプラスにピークに達していた。

京都大学大学院を無事修了した私は、病気の関係で少し卒業後期間を空けてから第二新卒として就職活動をした。京都大学の大学院まで勉強した心理学と脳科学(神経科学)の知見を活かし、学習塾のメンターや塾講師の職を検討していた。

その時に、就活サイトで目にしたのが、中学の時に通った学習塾の求人だった。講師職と事務職の二つの働き方があったが、両方とも興味があり、会社説明会に参加することにした。

中学当時とは異なる、初めて行く校舎だが、白を基調にした教室の雰囲気は何となく当時と変わっていなかった。

懐かしさを覚えながら、受付の案内を受けて、説明会場の教室の椅子に着座する。机に広げられた塾のパンフレットとほぼ白紙のA3用紙が一枚置かれていた。その紙には「会社説明会」の文字があり、説明する項目が箇条書きに書かれていて、各項目の間には三行ほどの空白があった。裏は白紙で、表右下には担当者の名前が載っていた。

そこには、中学の時の塾長の名前が書かれていた。珍しい名前であるため、人違いではないと思う。私は驚きとともに、約十年ぶりの再開に期待を膨らませていた。

説明会の時間になり、塾長が入ってくる。当時と変わらぬ姿に私は感動すら覚えた。少し痩せこけたくらいで、黒ぶち眼鏡で甲高い声で説明する塾長は見間違うことはない。

「この塾のことを知っている人はいますか?」

と塾長は会場にいた十人ほどの就活生に問う。二~三人ほどが手を上げる。

「この塾に通っていた人はいますか?」

残りは手を下げ、私一人だけ手を上げ続ける。

「どこの校舎ですか?」

「○○校です」

「私もそこにいましたが、あそこは塾の激戦区ですよね」

と対等な会話が弾む。
しかし、お互い顔を合わせているのに、どうやら塾長は私には気づいていない様子だった。私は、はやる感情を抑えきれず、「元Dクラスの△△です」と名を言い、「先生から国語を教わっていました」と伝えた。

他の就活生からしたらはた迷惑な会話だが、私の人生にとっては大事な瞬間だった。塾長は一瞬目線を上げて考え事をしていた。十年の間に塾長は膨大な数の受験生と会っている。すぐに思い出せないのも無理はない。塾長は、目線をもとに戻すと、説明会を続行した。

説明会は塾長の授業のようで、重要事項をしゃべりながら塾長がホワイトボードに書いていく。白紙が多かったのは、その塾長の板書を写すためだったと思われる。唯一当時と違ったのは、塾長にイジられなかったくらいだ。甲高い声で説明する塾長を見て、今の姿が当時の姿と重なった。

説明会の後に、休憩時間を設けて、その後ペーパー試験の一次選考が行われる。その休み時間に、塾長がわざわざ私の席にまで来てくれた。

「この長い間によく頑張ったね」

「いえいえ。塾長の教えがあったからです。ありがとうございます」

短い会話だった。おそらく私の履歴書を見て、塾長は思い出し、驚いたのだろう。あの最下位で国語の入塾テストにすら受からなかったDクラスの私が、京都大学の大学院にまで行っていたのだから。おそらく、Aクラスの生徒でもめったにいないだろう。

私は思うところがあって選考には進まなかったが、塾長と再開し、頑張ってきた証拠と現在の姿を見せられたことで、塾長に恩返しできたような気がした。勉強で揺れていた振り子はもう用済みだった。

勉強に翻弄されてきた青春だったけれど、後悔は全くない。多くの人を巻き込み、多くの人に助けられて、微力ながらも恩師に恩返しできた。何か一つに没頭する。それだけで、十分に人生は楽しくなる。勉強は私の人生を支える柱の一本になっていた。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?