「だいじょうぶ」だけでいい。
こんにちは。
修士課程の二年で、人生3度目のでかすぎる壁にぶち当たり、見事砕け散ったあまくさです。
私が初めて「でかすぎる壁」と感じたのは大学受験。
乗り越える原動力となったのは、「これまで支えてくれた人への感謝」。
2度目に「でかすぎる壁」と感じたのは、新卒一年目。
乗り越える原動力となったのは、「今この瞬間にも困っている人がいて、その人たちが少しでも楽に生きられるようになってほしい」という思い。
そして3度目の「でかすぎる壁」は、修士課程である。
研究は、事実と向き合い忠実に一般化し、社会に役立つ"何か"を論理的に導き出してくる作業である。
日常生活で、人はそれなりに物事を抽象化したり論理立てたりして生きているが、研究で求められるその"論理的"は、日常生活ではやるそれより遥かに高度で、たかだか二年そこら研究をかじったような学生が易々とできるものではないのである。
そうして、「できない」を認めることで初めて研究を取り組む資格を得ることになる(と、個人的に思う)。
しかし、「できない」を認めたとて、そこから急に「できる」になるはずもなく、そのプロセスをカメのように進んでいくのだ。
正確には、「こちらとしては激しくジタバタしているので進んでいると思いたいが、それを確認する場は修士課程でほぼ無いと言っていい」だ。(少なくとも私にとっては)
(笑)
書いていて笑えてきた。
受験の時には模試の判定や合格が。
仕事ではその成果が。
ある程度わかるような日々だったがそれがない日々が続くと言えばよいだろうか。(実際、大学院生はそうでない人よりも6倍うつの発症率が高いというデータもある)
で、そんな時に、たまたま聴いて、思わず涙が止まらなくなった曲がある。
アーティストwacciの『大丈夫』という曲だった。
これを聴いて、
ああ、私がほしかったのは、
「大丈夫」
その一言だったんだ、と気づいたのだ。
「大丈夫」って、小さい頃からきっと何万回も使った言葉だけど、「頑張れ」とか「凄いね」にはない不思議な力があるね。
そして、やっぱり、ひとが心を込めて創るものっていいな。
頭で考えたり小難しいことばかりよりも、自然と心が動かされるって、いいな。
と心から思った。
正論や論理的な考えは大切で、それを突き詰める人がいるから学問は発展し、世の中は豊かになったり(ならなかったり)する。
でも、その根底にある人の心を大切にしたいし、研究の発端もそのプロセスも、人の思いがあって、初めて成り立つものだと思っている。(というか、本質的な研究はそうであると信じたい。)
科学で社会に貢献したいと思いながら、やはり人として大切にしてきた心を見失わぬように、バランスを取りながら生きていきたいと、研究者のひよっこは思うのでした。
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