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読書日記#21 骨盤と肋骨と老いと人生の連なり

1月★日

「肩が後ろにいっちゃってます」
「肋骨がゆるんでるから締めて」
「右の骨盤が前に出てます」
「手は耳の横でまっすぐ伸ばす感じで」

毎度、頭から指先にかけての神経回路が大パニックを起こすピラティス。
最近、ようやくロールアップの時のお腹の引き込み方がわかってきた気がするけれど、普段身体を左足で支えてしまっているために、右のお尻の筋肉がよわよわなことが発覚。結果、知らず知らずのうちに間違った動きをしてしまう。

帰ってきたら今度は歯医者。歯間ブラシを使うように言われたのに全然使ってないのがバレる。詰め物をした歯の周りに「ポケットができ始めている」ことを指摘される。うう、悪化するのは嫌だ。

ピラティスも歯医者もだけど、自分の体のことなのに、全然制御できない、どころか何が起きているのかすらわからない。

でもだからこそ、身体を動かしていろいろやっていると、断絶していたシナプスがつながって、身体の認識の解像度が上がっていく感覚があって、その瞬間瞬間に幸福ホルモンが分泌されているような快感がある。この幸せをなぜ私はこの年になるまで知ることができなかったんだろう。

いや、知っていたのかな。

小学校1年生くらいのなわとびや鉄棒はそんな感じだったかもしれない。人目につかない場所があるなら、またなわとびがしたいっていうのはずっと思っている。

歯医者の隙間時間やランチタイムには、「インタビュー術!」の続きを読む。

古い本なので、物理的なHowは参考にならないけれど、インタビューの注意点やポイントについては、良い復習になる内容で興味深い。

インタビューってなんなんだろう。最近ぐるぐると考えている。
インタビューの文章って結局加工された虚構を一定量含むのだけど、それでも、インタビューしてその人が語らないと出てこないフレーズはたくさん含まれる。
読者が誰かによってカットする部分、強調する部分は変化するけれど、それらが本人が主張したかったこととどの程度ずれるところまでなら許されるんだろう。

やりたいことにこだわっていると、だんだん自分の頑なさに反省する気持ちが込みあがって、自信がなくなっていく。
一つ一つ言われたことを思い出す。

結局私は何がしたいんだろう。純文学してるわけじゃないんだから、自己満ではやっぱりダメなのはわかってる。

「個別化」する能力が高いらしいということが最近より強く認識できたけれど、私の場合、それで誰かを成長させたり、リーダーシップを発揮したりとかできているわけではない。唯一無二の個性を見出しても、アウトプット先にメリットのある文章や企画を考えるくらいしか、活かせることがない。

「普通」に埋没したいと願いながら、自分だけの特別な強みがあってそれを活かせたらいいのにって思ってる。身勝手。

そんなことをもやもや考えながら帰ってくる。

午後は友達におすすめされた「風の谷のナウシカ」の漫画版の1巻を読み終えた。図らずも毒を含む瘴気が蔓延し、人々がマスクをして暮らすという、現代にも相通じる、重厚な世界観。

友達には「夢中になって一気読みしちゃうと思う」って言われたけれど、複雑な世界と登場人物の関係や状況を理解するのに、何度も前のページに戻って確認するので時間がかかる。
これを一気読みする集中力はすばらしいと思う。
メッセージの深みがとてつもなくて、いろいろな感情が寄せては引いていくような面白さはあるのだけど。
2巻はまた今度にしよう、と思う。

夕方にはまた外出。今日は細かな外出予定が多い。

まずは整体。
待ち時間や移動時間には「繊細な人が快適に暮らすための習慣」を読んでいた。Kindle Unlimitedで無料。

ページをめくってもめくっても、そうなんだよーって思うことがずっと書いてある。
時々、私だけじゃないし、私のせいじゃないって思いたくて、こういう本をつい読んでしまう。

たとえばこういうフレーズはすごくわかる。むしろ周りは違うのか。

ひとつの作業を始めても、「あちらの作業もやらないと」と感じてしまう。作業に集中したらしたで、細部まで整えずにはいられず時間がかかる……。(略)
では、その理由とは何か。一言で言えば、優先順位をつけることが苦手なせいです。人の脳は、絶えずさまざまな情報を受け取りながら、「大事なこと」「そうでもないこと」を選別しています。ところが敏感すぎる人の場合、すべてが大きなボリュームで飛び込んでくるので、何が大事でないのかがわかりづらいのです。
他人の怒りやイライラは、その人物が大切な存在でない限り――つまり関心事でない限り、対岸の火事です。
(略)
しかしあなたはきっとそうは思えず、自分が矛先を向けられているかのように感じてしまうでしょう。これはなぜなのでしょうか。
ひとつはやはり、想像力のしわざです。「私だったら」というイマジネーションを一度持つと、それが一瞬のうちに心に広がるからです。
そしてもうひとつは、繊細な人によくある心のクセのせいです。それは「自分を責める」というクセです。場の雰囲気が悪くなったとき、「私のせい?」と考えたり、人のピンチを見て、「私、何かできたんじゃないの?」と思ったりすることがよくあるのではないでしょうか。
全方位で人に気を使うあなたは、誰に対してなら気を使わないのでしょう?あなたが「少々我慢させたっていい」と思う人は、何人いるでしょうか?もしかすると一人だけかもしれません、そう、あなた自身です。

日本では、4人に1人いるっていうくらいありふれているし、HSPが何か特別な疾患とは思わない。心理的な傾向の1つとして、理解と対策がしたいと思う。
解決策そのものよりも、的確に言葉にしてくれる文章は読んでいて心地よい。

よく、優しいねって言われたりするけど、私は本当は冷たいと思う。
周りを傷つけたくないのは、ただ、自分が居心地が悪いのが嫌だから。
本来はとてもワガママで良心に基づいた行為なんて全然できない性格だと思う。

さて、整骨院で整体の施術を受けたのだけれども、前に通っていたところよりも、しっかりと整体だった。首のゆがみを直した瞬間の骨の音は、身体があげる悲鳴のようにギリリリリと頭に鳴り響いた。くせになりそう。

いつも首の後ろのごつっと出っ張っていて痛みの塊みたいになっていた部分は実は本来飛び出てはいけない骨だったって聞かされてびっくり。
なんで前の整体では首をやってもらえなかったんだろう。しかも治療には保険がきくらしい。知らなかった。ありがたい。

すっかり首回りが楽になって視界が開けたのちに、今度は映画館へ。
「かがみの孤城」をみにいく。

私が高校時代に夢中で読んだ「冷たい校舎の時は止まる」を書いたのが辻村深月さん。映画になったこの作品は、本屋大賞受賞作で、初期のノベルスの頃の魅力が詰まったファンタジー要素を含む良作だった。
ついにアニメ映画化したということで、それはやっぱり見に行かないと、と思っていた。
思いのほか土日に予定があって、19:30ごろからという遅めの時間に。

見ての感想は、あの世界が本当にそのまま映画になってるー!うれしい!という感じ。
間違いなく本の方が心理描写が巧みに書いてあって面白いけど、映画でそれが表現される感動がある。
一方、原作読んでない人はわけがわからないトンデモ設定に思えるかもしれない。

そんなこと言いながら、私自身は本で泣いたシーンでやっぱり泣いちゃうんだけど。

この一年、5本アニメ映画をみて、そのどれも面白かったけれど、「ペンギン・ハイウェイ」を超えるものはなかなかない。

原作と映画、それぞれに素晴らしい!と感じられ、なおかつ映画館でみるからこそいい!と思える映像美がある映画が好き。

森見さん、またこういう本を書いてくれないかなー。

夜、ポイント還元セールを楽しむべく今週買う5冊を決めようとAmazonを見る。

まず「えーえんとくちから」は日替わりセールで激安だったのでもう買ってある。なんと歌集。ずっと気になっていた。これを買ってから触発されてちびちび川柳を作り始めたりしてる。

「会話を哲学する~コミュニケーションとマニピュレーション」は直感で面白そう、と手に取った。
漫画の台詞回しなどから、コミュニケーションの効用を紐解くような内容のようです。

「料理の四面体」はおもしろいって最近聞いた。多分これだったと思うんだけど。
何かを極めた人の文章ってそれだけで尊いから楽しみ。

女性向けのラノベかな?前からよくレコメンドに出てきて気になっていた「後宮の烏」。中華系ファンタジーはあまり馴染みがないので、このくらいのものからチャレンジしてみたいなーと。

そういう気分の時にぴったりそういう気分になれる、安心と信頼の伊坂幸太郎氏の「逆ソクラテス」も。
この前、クジラアタマを読んでしまったので、伊坂幸太郎氏ストックがなくなり、次はこれにしようと思った。

我ながら本のジャンルがめちゃくちゃだ。

1月●日

朝から早起きして美容院。
なんでこんなに眠いんだろう早く寝なければと改めて思った。

15分も遅れてしまったけれどなんとか到着。

そして家を出る時に気付いたけど、Kindleがない。
これは困った。

気のせいだと思うことにしてとりあえず出てきてしまった。

往復の時間で「繊細な人が快適に暮らすための習慣」を読み終えた。最初から最後までわかりみが深かった。

これってみんなそうなんじゃないの?と改めて思う。
3/4がそうじゃないってことなら、すごいことだ。

ところで、

HSP気質の方が文章形式で日記をつけると、「感情一本やり」になりがちです。

とあって、これはまさにこの読書日記だ、と思ったのはここだけの話。ただ、自分の感情に名前をつけたりして整理するのは、感情を制御するのにとても大事らしいのでいいことをしてると考えよう。

帰ってきて、余り物の玉ねぎとピーマンとウインナーでオムレツをつくって、美容院の近くのパン屋さんで買ってきたフォカッチャと一緒に食べる。

おいしくなさそうだけどけっこうおいしいよ

中身の野菜炒めを作ったフライパンにそのまま卵を広げたら、色が悪くなって全然美味しそうじゃなくてウケるけど、けっこう好きな味。自分で自分の好きな味にできるのは自炊の醍醐味。

ランチ後にすぐジムに。
整体に行ったという話から、昔は3Bだったチャラいから要注意な職業が、今は3Sで、整体師、消防士、スポーツインストラクターに注意しなきゃいけないらしい、という話になる。へええ。
相変わらず、私のトレーナーさんは話題の引き出しが豊富。

夜はいつものキムチ卵煮麺。今日は鍋を作る時に少し余らせておいた豚ロース肉もいれる。

やっぱりKindleが見当たらない。最後に開いたのはいつだったんだろう。会社かな、シェアオフィスかな。
それとも出勤で走ってる最中にバッグが開いて落ちたのかな。

仕方ないからスマホをジップロックに入れてお風呂で本を読む。

「おらおらでひとりいぐも」、最初は方言の入り混じる独特の文体がとっつきにくい感じがしたけれどだんだん引き込まれる。これぞ、純文学。

そこにあるのは、老いと人生。

結局結婚しても、子ども2人育てても、老いたら孤独だし寂しいんだな、ということわかる心理描写が胸に迫る。

いつのまにか、干し柿とバスタオルの間からこぼれていた弱い光が消え、あたりは淡い暮色に包まれ始めた。この時分になると桃子さんはいつもの見慣れた、それでいて手ごわい寂しさに襲われる。
時間がたてばさみしさなどというものは薄紙をはがすように少しずつ解消するはずなのだ、日にちが薬なのだもの、いつかは静まる、そう思ってごまかしごまかしやってきて、何とか克服できたと思った端からぶり返す痛み、ああこれは一生モンのいだみであるごどよ、逃げられねでば。

そしてふと窓を見て、山姥がいると思ったら、年老いた自分だった、というシーンも恐怖。

振り返ると出窓のところに女が一人立っていた。白髪交じりの蓬髪の女、すぐに山姥だと思った。
(略)
降り続く雨をいいことに、ろくに髪もとかさず、身なり構わず、ザンバラの白髪交じりの女は出窓に映った自分の姿だと気が付いた。

こんな老いへの気付きが詰まった文章、私には怖くて書けない。心強いなーと思う。

寂しさや孤独をどう表現するかは文学に対する1つの問いなのかなと思う。
私も私の寂しさを感じながら、その感じ方を書き留めておきたい気持ちになる。

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