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"火"や"毒"の扱い方。酒やSNSとの付き合い方

「お酒」とは、"煩悩"の象徴である。これにぼくは、どこかで気づいてしまった。

お酒とはとっても素敵な世界で、いつしかは"薬"として扱われ、時に神聖なアイテムともして、持て囃されてきた時代背景があるから、素晴らしいものなんだ!そう盲信していた時期もある。

ところが現代では、"科学的根拠"とやらによって、その存在価値のようなものに、やや傷を覆っているところがある。

それでも人は、まだまだ酒を飲む。昨今の"禁煙ブーム"のように、タバコほど社会の隅の方へとは追いやられてはいないようだが、それは愛飲家としては救いに感じる。

とはいうものの、やはり「お酒」は煩悩であり、ぼくが取り組んでいるウイスキーも、その例からは外れない。

「煩悩であるからダメである。飲むな。」そういった乱暴な話じゃない。煩悩というものはおそらく、別に持っていたっていい。確かに苦しみの原因となり得るのだが、「程々にして楽しみましょう」と、そういうことが"心構え"として、"嗜み"として、大切だと思う。

そのためには「お酒」それ自体を、"煩悩の象徴"である、と認めなければならなかった。飲み過ぎれば人をぐでんぐでんにしてしまうわけだし、たまに誰かを殴ってみたり、憂鬱になれば誰とも会わなくさせたりしている。心の波を上下に振るような効果がある。そういったものをだいたい"煩悩"と、人は呼んでいる。

酒とSNS

そういえばそんなものが他にもあったなと、思い立つのが「SNS」だ。お酒とSNSはとても似ている。楽しくもあり、苦しくもある。

こと自分の人生において厄介なのが、この二つの煩悩が、混ざり合って、何か強大な人生の障壁として、目の前を立ち塞いでいるかのように感じることがあった点だ。

囚われるのだ。世界の広さがそれだけかのような錯覚を起こし、どんどんと縮こまっていくような感覚。そこに明確な恐怖を覚えた。目が見えなくなり、音が聞こえなくなっていく。そんな五感から伝わる閉塞感を、確かに感じていた。

酒においてはまず、頭が働かなくなる。リラックスするような気分になるが、頭の中に広がりを持って、モノが増える。何かそんなの最初からなかったような気もするが、モヤがかかって見えなくなっていき、酔いから覚めると増えていて困る。苦しみは消えていない。そうか、これが酔っているというやつなのか。

SNSにおいては、認識できる世界が狭くなる。アルゴリズムによって与える情報はコントロールされているから、より長時間滞在させるような、ユーザーの"既知"を常に与え続けている。能動的に、"未知"を捜索するような元気はだいたいの場合、残っていない。

これら2つの煩悩増大装置のコンビネーションが、だいぶ厄介である。人間をただ「強い刺激にだけ反応する単純なロボット」へと成り下げている。

そんなことに気がついてしまったからには、安易に、呑気に酒を勧めているのはいかがなものかと、大きな壁に行き着いた。

煩悩はコントロールするもの

とはいっても、所詮それは個人の煩悩によるものだから、対策なんかは釈迦なり科学なりが既に答えを示してくれているだろう。

「お酒は程々にね」という言葉や、「嗜む程度」なんてあるように、自分からそれらを扱えたなら、全て事足りる話ではある。

問題は、その魅力、引力、強制力の強さにある。「わかっちゃいるけどやめられない」が横行する始末である。それを"依存"と呼ぶ。

仏教において、煩悩は"火"や"毒"として例えられることが多い。火は扱えれば料理に役立つし、明かりにもなるんだが、一つ間違えたなら火事を起こすか怪我をする。毒も適量であれば薬になるが、用法用量を間違えて、毒となる。

コントロールできるか?または、そもそもしているか?ということを問われている。そんな当たり前なことも、火力が強まれば、扱うにもなかなかの技術、経験を要するところがミソである。シンプルな結論だが、実際にやるとなれば、話は別なのだ。そしてそれを、あまり教えてもらえない。

酒とSNSを切り分けて、向き合う

酒とSNSを同時に相手にしていると、どこかで心身を焼かれている。気づいた時には全焼し、蝕み切っていたから大変である。それはなぜ起こったのかと考えると、それぞれを一緒くたに相手しているからである。

おそらく、SNSを見ながら酒を楽しむというのは本来難しい。自分が飲んでいる酒の味よりも、その酒を飲んでいると投稿した時、それに対する数字や反応が気になっているからである。それに気を取られているうちに、飲み過ぎている。

酒とは夢である。飲むことで見える世界がある。日常的な意識の状態から離れて、普段とは違ったものの見え方がしている。そういう効果がある。

SNSもまた夢である。実体はなくとも、そこには確からしい世界が広がっていて、そこにいる人々と交流をし、親密になっていくだろう。

だがどちらもまた夢である。それぞれを混ぜ合わせた時、大変に危険だ。酒で見た夢を、SNS上に持ち出したり、SNS上で見た夢を、酒で見た夢と勘違いしてしまう。そして苦しみがわけも分からずに増幅する。

それぞれを、それぞれの夢として楽しむことが大切だと思う。SNSで傷ついたとしても、酒のせいにしてはいけない。酒で酔ったからといて、SNS上がいつでも無礼講になっているわけでもないのだ。

それぞれの夢について知り、それぞれの夢から得たものを分別して、理解することが大切だと思う。そうすることにより、ようやくコントロールが可能になり、振り回されることがなくなると感じている。

まずはよく、それぞれを理解すること。お酒を愛しているようで、SNSが楽しいだけなんじゃないか?と自分自身で気づくことがある。それは自分だけではないように感じたので、こうして言葉に残してみたのだ。

ウイスキー飲みます🥃