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痛い冬

子どもの頃、冬は、痛い季節だった。かじかんだ指先に、雪の日の爪先の痛さ。フリースなんてなかったから、重たいセーターや、マフラーを身につけるたび、ちくちくする首元からの痛みからも逃げられなかった。

それでもなぜか、冬のぴんとした、乾いたにおいは、お腹の底からさぁ早く早く、と駆り立てるような潔さと強さを持っているのだった。映画『スノーマン』の男の子がそうだったように、一秒だって待っていられないというように。

大人になってからの冬は、まるくやさしい。とびきり寒い日に好き好んで出かけなくてもいいし、いつでもどこでも温かいコーヒーが飲めるし、防寒着さえかろやかになった。冷たい外の世界から目を逸らしてくれるものがありすぎて、まるでひとつの季節を見ないようにしてやり過ごすことも出来そうだ。

嫌なこと、痛いこと、困ったことは、ほとんど、事前に回避できるようになった。まっしぐらに突き進んでは何かに立ち往生する人達を横目に、手に入れたファストパスで、自然の摂理のあいまさえ、すいすいと縫うように日々を過ごす。

でも、真っ白い息をはきながら、爪先の痛みをがまんしながら、いちめんの銀世界を転げ回ったときのように、世界を見ることはもうないだろう。おしくらまんじゅうで暖め合って、笑い声がどこまでも高く澄んだ空に吸い込まれていく、煌めく一瞬を感じることもないだろう。大人になって、快適なものに囲まれて、まるくやさしくなっていく。実際は、すり減っているだけなのかもしれない。自分で自分を保たせることに長け、暖め合う誰かの手なんか必要としなくなって、それが幸福なのか不幸せなのか、考えることからも上手に逃げられるようになるのは、少し、いやとても、哀しいことなんじゃないかと思う。

ことし、いちばんはじめの冬のにおいを感じたら、わくわくと胸の底からこだまする思いに、すなおに、向き合ってみよう。行きたい何処か。会いたい誰か。すぐに行って、すぐに会って、とりとめのない話であふれる笑い声を、高らかに、澄んだ青空に飛ばそう。痛くて寒い冬だから、いっそう、毛布のようにあたたかな、愛の強さをかみしめることができる、そう信じて。

*主宰ZINE「Whipped2号」に掲載したコラム(詩)です*

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