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中国三大石窟

中国には「中国三大石窟」と呼ばれる石窟が3つあります。いずれも世界遺産に登録されている石窟寺院です。

それぞれの石窟寺院にはその歴史に大きく関わった人物がいますが、いずれも同じ国にある遺産、石窟寺院という特徴があるため、混乱しがちになります。それと、テキストだけだとイメージしにくくて覚えにくいんですよね。

この記事でそれぞれ遺産の特徴、歴史をしっかり整理して、復習がてらまとめてみましょう。まずはそれぞれの遺産について見てから、覚えるポイント、抑えるべき点について解説していきます。

敦煌の莫高窟

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敦煌(とんこう)の莫高窟は建造物、絵画、彫刻で形成されている世界でもトップクラスの大きさを誇る仏教寺院です。

莫高窟(ばっこうくつ)は前秦の時代(351~)から13世紀まで約1000年の間、造営された仏教寺院になります。735の石窟が現存し、492の石窟に窟番号が付されています。敦煌自体は前漢の武将である武帝によって、軍事拠点として建設された後、シルクロードの中継地点として発展しました。 

莫高窟は366年に楽僔によって掘り始められました。彩色壁画、仏像も安置され、中国の仏教の変遷を語る上での貴重な資料となっています。13世紀まで造営された後、次第に衰退して行きましたが、1900年に道士が古写本などを発見し、その名が再び世界中に知れ渡りました。敦煌文書には経典、文書、絹本、刺繍などがあるのですが、 見つかった5万点のうち、1/6はサンスクリット語、チベット語、ソグド語などの写本が占めています。
ここで発見された文書は敦煌学という新たな学問領域も生み出しました。 

雲岡石窟

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掘り出された大きな仏像が特徴的である雲岡石窟では約1kmの断崖面に252の石窟を見ることができます。かつての大国・北魏の文成帝曇曜の提言に従って、開削を始めました。「曇曜五窟」と呼ばれる石窟に自身を含めた5人の皇帝を模した大仏を建てました。

洛陽の遷都後、敦煌の莫高窟と同じように何百年も忘れ去られていましたが、伊東忠太という日本の建築家が中国を訪れた際に再発見しました。
仏像は年代によって形式が異なり、徐々に中国独自のものになっていったという歴史の変遷を窺い知ることができます。

龍門石窟

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龍門石窟は伊水両岸に掘られた中国最大級の石窟寺院の一つです。
大きな仏像が壁際に整列しているのが特徴的な石窟です。

最初の石窟は北魏から洛陽への遷都を行った孝文帝によって築かれ、その後400年以上造営が続けられました。
石窟は2300以上あり、主に仏像などを安置しておく役割を果たす仏龕は785もあります。力強さが特徴的な雲岡石窟の仏像と比較して、龍門石窟のものは繊細な装飾が特徴的です。

龍門石窟最大の窟である奉先寺堂の高さ17.4mの盧舎那仏は即天武后を模したと言われています。

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覚えるポイント

どのような経緯で造営されたか頭の中でイメージできることが大切です。例えば、敦煌の莫高窟は「敦煌学」という学問を生み出しています。
そこから、、、


流れ)
どうして生み出されたのか → 貴重な資料が発見された
どんな? → 生活や政治、文化、言葉の歴史を知る資料
なぜそんな多岐にわたる? → シルクロードの中継点

このように一つのキーワードを覚えておくだけで、考えているイメージから歴史を振り返ることができます。単語と単語の繋がりを意識して覚えるということが大切ですね。

抑える点

この3つの世界遺産を覚える上で抑えるべきことは、
-  それぞれの石窟の規模(特に数字で記載されている箇所)
-  造営に関係した人物
-  大仏、石窟が造営された経緯、影響
です。抑える点を明確にしておくことで記憶への定着を早められると思います。(経験談)

急いでいる人はここを読め!

敦煌の莫高窟は楽僔から始まった石窟で、シルクロードの中継点として発展し、敦煌文書は新たな学問を生み出すきっかけとなりました。

雲岡石窟は北魏の隆盛を伝える仏教遺跡で、曇曜と文成帝がタッグを組み、建立しました。日本の建築家、伊東忠太によって再発見された経緯があります。

龍門石窟は中国仏教で隆盛を伝える遺跡で、孝文帝によって築かれました。繊細な装飾が特徴の石仏は11万体を数えます。

参考

本記事は世界遺産検定事務局さんが出版されている世界遺産大辞典を参考にさせていただいております。世界遺産検定の事務局さんのホームページはこちらから!


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