夢の振り出し

コントの批評家になった。
っていうのはすごく盛っていて、盛らないで言うと、ちょっと前にはじめて書いた批評が、先日ちゃんと掲載されたよわーい、です。

何でも言葉にしてる。誰かに話すためじゃなくて自分の頭を整えるために。気持ち悪い時吐いちゃえば楽になるみたいに、頭が気持ち悪い時は全部言葉にして吐いてる。そうするとちゃんと楽になるから、吐くっていうエグい言葉を充てがうのもあながち正しいのだと思う。
エグい理由だけど、だから、思ったことを言葉にするのは慣れている。

でも批評を書くって、そりゃそうだけど、まったく違うことだった。
そもそも批評って烏滸がましい。だってコント作ったことないのに、好きですというだけの理由で、コントやコントの作り手に対して評を授ける。失礼。批評書くまえにコント書けよって、私が評される側だったら絶対思う。
だけど正直そんなことは分かってて、でも同じくらい、どうせ観たあとお酒飲みながらああこう言うくらいならいっそ批評書けよ、とも、自分に対してずっと思ってた。それにせっかく文章を書くのなら、なるべく好きな場所で、なるべく好きなことについて書いてみたかった。

いい批評って何だろうと思った。調べないで自分で考えてみようと思った。

その評によって、対象の価値が伝わること。わずかでも対象がよくなること。作り手が、じゃあこう工夫してみよう、もっと頑張ってみようと勇気づけられること。読んだ人が、自分も見てみよう、次はこういう視点を持ってみようと思うこと。観客が増えて、その対象が儲かって活気が出ること。その先に、かつむしろ大前提として、批評がひとつの文章として魅力的なものであること。

しっぽを巻くけれど、はじめての寄稿でしたもので、こんな条件をちゃんと網羅出来てたなんて到底思えない。
自分の気持ちを嘘なく表しながら条件にあぶれない言葉を探すのにまず、めちゃくちゃ時間がかかる。そこに注力するうちにつまらない文章になるし、まして自分の文体なんて消える。だんだん、何かのためになることを書こうという気概自体が浅はかだったと思えてくる。何にせよまだまだなことを一行ごとに感じるし、己の表現力の底を突き付けられる。それでも、書いている間とにかくものすごく楽しかった。何とかこの網をくぐり抜けてみたいと思った。
そして掲載を知った時、やっと「書いた」と思えた。そこではじめて、これは小さな夢だったのだと気付いた。

「書いた」という実感は、そこから生まれる責任すべてを自分だけで背負う、ということなのかも知れない。
もしその言葉たちが誰かを傷付けたのなら当然私だけのせい。だからこそ言葉の端の端まで神経を割く。でももし、誰かを少しでも支えたり、鼓舞することが出来たのなら、その喜びもぜんぶ私だけが喰んでいいのだと思う。
私の夢は、書くことや、それが世の中に出ることだけじゃなくて、その先の苦みと喜びをぜんぶ一人で背負ってみることだったのだと知った。

その場所のシステム上、評を載せてもらえるとすぐまた次の評を書くことになる。だからつい先日まで、次の評に七転八倒していた。
だって今度はもっとずっと難しかった。シンプルに好きなユニットばかりの公演だったから。令和になる前からずっと好きだった人たち相手に評なんて書けません。大好き以外の言葉ありません。もっとよくならなくていいですもうじゅうぶんです!
だけどこうなったらもうマジヤバ文章を書いてやるしかないのだった。自分で勝手に掲げた条件からあぶれないように、でも愛は損なわないように、好きだからこそ書けることだけ書くように、好きなのだから誰にも負けないように、そして何より少しでも彼らのためになるように。真面目にまっすぐに書いた。
ずいぶん言葉をゴロンゴロンさせたけど、自分なりに落ち着く表現を見つけられた。やっぱりちゃんと無事楽しかった。それなりに自信作!です。

誰も読んでないかも知れない。でも全然それでいい。誰かのために書くという、結局は自分のためのことなんだきっと。だって夢だったのだから。
これからも少しでも、夢を、つづけられますように。

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