7月11日のメモ

昨年めちゃめちゃ苦しんでた時のメモが出てきた。
苦しみ過ぎててちょうかわいそう!




分からないことの数がここ数日で一気に膨れあがった。困った。

違和感を感じるのは当たり前だし正しい感情だけど、どうしてそうなっているのかが分からなくて、だって今まではだいたいは分かってたから、それがつらい。
どんなことがあっても明日はなるべく変わらずに生きていかなきゃいけないのは分かる。でも。その明日ってどんな意味があるんだろう。何のためなんだろう。自分じゃなかったからよかった明日なのかな。受け止めながらも強く生きていかなきゃいけない明日なのかな。何でだっけ。
殺した人に対して。どうしてそんなことするんだろうって多分思ってない。する人の気持ちが少し分かる。色々なことを地続きに思ってしまうのはそのせいなのかも知れない。「またここか」の近杉の気持ちかも知れない。でも私はやらないと思う。出来ないから。やらないからこそやった人の気持ちを分断してはいけない。

不謹慎の期限を決めるのは誰なんだろう。私がもういいですねって言ったらまた始まる。始めなきゃいけないのも分かる。でもその理由は何だろう。仕事だから?営利目的だから?始めていい理由は何だろう。世間の空気?世間の空気って誰が作ってるんだろう。私も世間の空気を作る一員だと思う。一員の私は始めていいのか分からないって思ってる。みんなはどう思ってるんだろう。私がまだダメだと思ったらやっぱりちゃんとダメだって言わなきゃいけない。でも私が決めていいのか分からない。
一生その日常に戻れない人がいる。というか私たちだってそう。戻れない。でも戻ったふうに生きていく。歴史上の事件みたいだという人がいる。分かる。そうだと思う。でも何言ってるんだろうと思う。人が言っている分にはいいけど私からはそうは言いたくないなとも思う。

本当のことを言えないのが嫌なのかも知れない。本当のことを言えない人たちとは一緒に生きる意味がないと思ったりする。本当のことを言ったときの、でもまあそんなこと言ってもね、という空気が本当に嫌い。そのでもまあそんなことが苦しくない人は、ルッキズム論でいう「そこまで気にせずとも何とか暮らしていける」人。一番の悪者。悪者っていうか脅威だと思う。そういう人たちのせいでずっと苦しい。ずっとずっと苦しい。
でも私も誰かに対してきっとそうしているんだと思う。自分が気になる部分に対してだけこっち側で、気にならない部分に対してはそっち側なんだと思う。

異常も、日々続くと正常になる。正常にするための時間が今なのかも知れない。異常が嫌なのかどうかももう分からない。でも正常にしたらダメなのに。ダメだからこのコピーが生まれたのに。だけどみんな、本当は平気なんじゃない気もする。

全部どうしたいのか分からない。どうもしたくないのかも知れない。
ヨーロッパだって行きたいかも知れないし行きたくないかも知れない。行って自分の気持ちは変わるのかな。それなら行きたいけどそれだけだ。

ほめられるのはうれしい。思っていることを言葉にして、企画にして、人にも分かる形にして、伝えて、とてもそうだ感動した、と言ってもらえるのはうれしい。大変だけど楽しい。思っていたことは間違ってなかったんだなって思うから。伝わったなって思うから。好きな人や尊敬している人がそう言ってくれるのがうれしい。でも、だから何なんだろうと思ってしまう。何なんだろうと思わない日は来るのかな。何かをちゃんと受け取ったら、思わなくなるのかな。いいものを残したいけど、何のためにいいものを残したいのか少しだけ分からない。プライド?悔しいから?

私が来るまで始まらない打合せばかりで怖い。私が決めたら全部そうなる打合せばかりで怖い。それはもうチームじゃなくて私なんじゃないか。私が一人でやればいい。でも私も昔そうだったんだろうな。
私は何も変わってないのに、私に求められることや私が決めていいことが急に増えた。きっとポジティブな理由じゃなさそう、と思う。ポジティブな理由ならもっとちゃんとうれしいのかも知れない。
一人でずっと正解を出し続けないといけない気がしている。そんなことないのに。あるいはでもそれが大人なのかも知れない。大人はずっと一人なのかも知れない。何で一人だって思うんだろう。

分からないけど、何だかもうすぐ会社をやめそうな気がする。いい名前の会社は魅力的だけど、行っている自分が想像つかない。行きたいとも思わない。有名になりたいとも思わないし、広告ももういいかなって多分本当に思ってる。
でも。責任をちゃんと果たしたい。責任って仕事の責任じゃない。別に私がやめても誰かがやるだろう。そうじゃない。せっかく少しだけ信用しようとしてくれた人と一緒にまだ何かを作りたいという気持ちがある。しんどいなって思いながら少しずつ築いているものだから、やっぱりすごく簡単に手放せるわけじゃない。
プライベートを切り売りしている仕事なのに、プライベートと混同するなと言われる。プライベートで体験したことだけが仕事のためになるのに。深い人間洞察力を、と言われるけど意味分からない。じゃあ人間洞察を教えてください。生きていくために死ぬ気で自力で培った人間洞察力を搾取されている気持ちになる。人間洞察が楽しい商売になるなら困らないよ。つらいばっかりだよ。

昨日のコント思った以上に悲しかったな。自分は全然関係ないのに悲しいなんてバカみたい。誰にも言われてないけど私がバカみたいだと思ってる。自分は何もしてない。これってどんな現象に似ているんだろう。あんなに素敵なのにな悔しいなってずっとそればっかり思ってるけど、別に誰かに聞いてもらいたいわけじゃない。
大しておもしろくない2分の作品を濁流のように見るのは、思っていた以上にものすごく楽しかった。人がおもしろいと思った瞬間とか、それを表現にしたその方法とか、もっとこうしたらよくなるかもとか、そういうのを考えるのがきっと楽しいんだと思う。でもそれをして私は何がしたいんだろう。何か物語が生まれる瞬間は確かに好き。どうしよう。自分で作るしかないのかな。作ったら分かることはたくさんある気がする。

総会のこと。行かなかった理由はちょっとは分かる。自分が納得していないのに、言われたから来た言われたから座った、がどうしても無理だった。嫌なのに、嫌だと言わない表明しない自分が気持ち悪かったのかも知れない。写真のこともそう。選ばせてもらえないのも嫌だし、選ばせてもらえない中で従う自分も嫌だ。今日行ったら、冷や汗をかく自分がもう見えた。どこを見たらいいのか分からなくてオドオドして逃げたくなって身が縮こまる。別に座っていれば終わるしパソコンをやっていればよかった。でもパソコンをやるなら会社か家でやればいい。そこに来てパソコンをやっている自分は、それはそれで嫌い。ダサい。
でもまさか本当に行けないとは思わなかったな。大衆の中の一部になること自体が苦手なわけじゃない。もしそうだったら多分演劇も見れない。みんなで粒になって座っているのはむしろ好きな気がする。
でも、呼んだら来てくれると思っている人は何なんだろう。どうして選択の権利を与えてくれないんだろう。アッパーな考え方が理由なのか、もっと真剣なのかも知れないけど、従えなかった。その考え方がどうしても、私には浅はかに映る。その場を成立させる1つのピースになっていることをどうしても気持ち悪く感じてしまう。別に今日ダウナーじゃなくても行けなかったかもな。自意識警察の発動。

何でもないことをいいなって思いたいのは、何でもないことをいいなって思わないと生きていけないからだと思ってる。大きな喜びには体力が必要。そんなにたくさんはいらない。何でもないことをいいなって思うことが好き。それなのに、何でもないことをいいなって思う訓練をたくさんしてきたのに、そこに今ものすごく泥がついている気がする。

ちょっとだけ新しい形のダウナーだ。あんまりに答えがない。ずっと答えが出続けないんだと思う。つらくなくなりたい。でも、つらくなくなることは出来ない気がする。全部から逃げたい。仕事とかじゃないもっと大きい枠から。悲しさから。つらさから。
みんな大丈夫なのかな。大前提生きていきたいから大丈夫なのかな。大丈夫ならうらやましいな。作っていれば、忘れられるのかな。



読み返して、一つだけ言ってあげたい。
ちゃんと考え抜いて、言葉にし切って、えらかったね。

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