神様に問い合わせる

ファンシーなタイトルだけど、とても最低なことを書きます。

もうすぐ会社を退社する。この会社で私は、神様と知り合った。
神様はお友だちではないので、お話しするのは本当に行き詰まった時だけ。
進路に迷った時。板挟みでがんじがらめになった時。仕事全然関係ないけど、とある通り魔の供述に心を引っ張られ過ぎてどうしようもなくなった時。
突然の取り留めない超長文に、神様はいつでもすべて知っていたようすで、私が言われたかったこと、聞いてほしかったことを、すっと差し出してくれる。


退社にあたって、何度か送別会を開いてもらっている。
たくさんの人が時間を割いてくれる。日々もったいない言葉をもらう。うれしいしありがたい。それは本当に。
この間、ひときわ大規模な会をしてもらった。想定をはるかに凌ぐボリュームで、贈り物もたくさんで、自分の身に起きたこととは思えない程で。どうしてこんなことが起こるんだろうと思った。もちろんいい意味で。準備も大変だっただろうと思う。
でも、もしこれが愛してもらったことの表れなのだとしたら、どう受け取ったらいいか、どう返したらいいか、分からなかった。しばらく考えたけど分からなかった。
だから、神様に問い合わせをした。

神様は、自分にも同じ経験があると言った。

それはそれは大層な送別会を、過去にしてもらった。丁寧に企画されていて、本当にすごかった。もちろんありがたかったしうれしかったけど、でも「みんなに愛されている」とは思えなかった。
本当にお世話になった上司からは、ビデオメッセージだけが届いた。嫌そうに、目線を合わせずに、仏頂面でポツポツ話していた。
きっとそれは、自分がいなくなることが嫌で、許せなくて、空しかったから。愛されているとまでは思わなかったけど、想われていたんだなあ、という生々しさを感じた、と。

とても最低なことを言う。
やっぱり私は怖かったんだ、と思った。大規模に送り出してくれる人たちに対して、どうしてここまでしてくれるんだろうって。そしてその底にあるのは、本当にさみしかったらこんなことするのかな?という、本能的な不安だったのかも知れない。
ひとつ心当たりがある。その大規模な会のお礼に、手紙を書いた。でも、そこに「みなさんからもらった『愛』」と書くのはどうしても違和感があって、じゃあもらったものは何だろう?と思って『気持ち』と書いた。
その違和感の理由はきっと、大きなものをもらったからといって、それが愛されている手触りにはならなかった、ということなのだった。
贅沢で、失礼で、最低だけど。

その話から私は、かつて出席した送別会のことを思い出した。
ずっと信頼していた、一番お世話になった先輩の送別会だった。その日私は終始ムスっとして、その人から一番遠い席に座って、大した挨拶もせず一次会で帰った。
もちろんその先輩がいなくなることが嫌で、許せなくて、空しかったから。


愛されるってどういうことか。自分でコントロール出来るものじゃないのだから、そんなことあえて言葉にする必要ない。
だけど、きっと、別れる時、誰かから本気でムスっとされることだ。離れることを、嫌で、許せなくて、空しく、思ってもらうことだ。

私がいなくなって今、本気でムスっとしてくれてる人はいるのかな。そういう人は名乗り出てはくれないから、もう気付くことが出来ないかも知れない。もしいたらごめんね。愛してくれてありがとう。
それから、そうじゃなくて大規模に送り出してくれる人たちの気持ちを受け取っていない訳では、決してないです。


生々しくなければ人は愛されないし、毎回不器用にあたふたしながら傷つく人のほうが信用できる、と神様は言った。
やっぱりいつも神様は、言われたかったことを言ってくれる。だけどいつも、難しいお題ばかり出してくる。

今度の場所ではもっとムスっとしてもらえるように、私もムスっとしたくなる人にたくさん出会えるように、生々しく、毎回不器用にあたふたしながら傷ついて・・・
ぎゃー、大変だ。


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