自意識に殺される人、殺されない人

タイトルをご覧いただきたい。果たして私の言わんとすることは伝わるのだろうか。あー、何となくこういう話が展開するだろうなと思えた方は既に殺されています。逆に「は?」と思った方は私とは一生気が合わないけど幸せに生きていくことのできる人です。私は後者の人々に憧れと妬みを抱いています。

前置き?はこの辺にして、タイトルの意味について述べていこうと思う。

まずは定義だ。これは論文ではなく日記の延長線上のようなものなので辞書的な意味ではなく私の捉える感覚で語らせてもらうと、「自意識」とは「様々な媒体を通して他者と関わる中で起こした自らの言動や行動について後から思い返す中で生ずる自己像との歪みを修正する力」とでも言っておく。自分で読み返しても意味が分からない。

例を挙げる。Aくん(殺されている)とBくん(殺されていない)はオタクで2人ともCちゃんというアイドルが好きである。
Aくんは長いことCちゃんを応援しているがsnsで絡みにいくことはまずなく、時折特典会で拙い言葉を届けるのみ。一方Bくんは様々なアイドルが好きでその中の一人としてCちゃんを推している。Bくんは推しているアイドルたちがsnsを更新する度に反応する。おはようと更新されればおはようと返し、真面目なブログにはまじめな長文を送り付ける。特典会に行けば自分の名前をアピールして認知をもらう。


さて、意味は伝わったのだろうか。これが自意識に殺されるか否かの分かれ目である。
なぜAくんはアイドルに依存しているにもかかわらず積極的に絡みには行かず、Bくんは絡みに行くのか。

答えはAくんの自意識がBくんに比べ明らかに強すぎるからである。

「ん?我をアピールしてどうにか認知してもらいたいBくんこそ自意識が強いのではないか?」

そう言いたい人も多いだろう。しかしそれは誤りだ。

Bくんは自意識ゆえに自らをアピールしているのではなく、ただアイドルから認知してもらいたいだけ。ただそうであるが如くそうなっているだけだ。

対するAくんは自分とはこうあるべきという己の中の理想の自分がいて、その状態から少しでもズレた行動ができないもどかしい存在なのだ。

もちろん、もちろんAくんもBのようにアイドルに認知され、名前を呼ばれ、レスをもらい、幸せになりたい。しかしそれは永遠に叶わないのだ。

それは何故か。


彼の中にいる「自己主張が激しいと思われたくない自分」が常に彼を監視し、行動を管理してしまっているからだ。

彼は誰にも救えない。終わりなのだ。もうこの先死ぬまでいや死んでも彼は自意識に苛まれ続け、終いには潰され、殺される。

この差はなぜ生まれるのか、Aくんこと私は考えた。導き出した答えはカンタンだ。

「BはAより知能が低いんだ。そうだ、知能が低いから自己本位でしか物事を考えられない結果。自らの行動か他者に与える影響について何も考えることなく生きていられるのだ。きっとポイ捨てされた空き缶を見ても何も思わない、何も感じない、そういう人間なのだろう」と。


そうなのだろうか。しかしAはその答えを決して疑わない。いや、疑ってしまわないようにしている。

なぜならそれは最後の命綱、彼を現実に引き止めておく最後の光なのだ。これを壊さないようたとえ幻想だとしてもそう認識しないように必死に自分に言い聞かせる。

「周りの奴らは馬鹿だから、知能が低いから、俺のように様々なことに悩むことなくアホ面晒して生きていけるのだと。きっとそうだ、いやそうに違いない。やつらは本当に可哀想だ。」

しかしBの周りには次第に仲間ができ、アイドルが好きだったことなど忘れて結婚し、子供が生まれ、孫が生まれ、幸せだと、そう呟きながら死んでいくに違いない。

一方の俺は一生家の中でインターネットの前に立ち尽くし、どこの誰とも分からぬ他者の幸せに絶望し嫉妬し、可愛い女に顔を緩ませ、生の意味を問うことなく誰からも目に見えず日の当たらないジメジメした場所できっと死んでいくのだろう。「あーあ、しょうもなかった」などと訳の分からないことを呟きながら。

思えばTwitterへ投稿する言葉というのは死に際に思うことの貯蓄、積立なのかもしれない。ははは。はぁ。

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