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凶悪犯罪の犯人と自分の違い

 惨殺な殺人や事件を起こす人は自分とは違った別のある特定の人種と思っている人が多くて驚くことが多い。その自分だけは絶対にそんなことはしないという確信や自信がどこから来るのかさっぱりわからない。私は私なんて全然信じていないのでいつどんなことを起こすかなんて全くわからないといつも思っている。自分で自分を殺すということの関してもいつそんな気が変わるかわからないと思っている。

 何か事件が怒るとその事件の背景も何も知らないのに、酷いという人が沢山いるけれど、実際にその人がどうしてそんなことをしたのか理由があるのか、それとも理由はないけどしたのかなどはニュースで少し伝えられる以外にあまり明らかにならないし、いつの間にかその事件も消えてしまう。そしてまた同じようなことが繰り返されていると思う。毎回そんなことが起こる度に、そんなことをするなんて人間じゃないとか、そういう残酷なことを兵器でやる人たちは自分たちとは違う種類の人間だと言い切る人が出てくるけど、私にはそう信じることで社会は平和であると信じているというふうにしか見えない。

 人を傷つけることなんてとても簡単だ。自分の怒りに任せて憎しみから誰かを傷つけることなんて容易いことだと思う。問題はそれを実行に移すか移さないかを決めることだけで。そんな決定をするきっかけは紙一重だといつも思っている。その重大な決定を下す紙一重が、明日の楽しみだったり、自分にかけられた優しい言葉や、未来への希望だったりするものだ。そんな歯止めになる何かがあるかないかで、惨殺な事件や事故はだいぶ減るんじゃないかといつも思う。

 うつ病で通っていた心療内科の先生に、生きていたいとは思わないけれど死にたい気持ちが薄くなってきて毎日一日をやりすごすことの辛さが薄くなってきたという話をしたことがある。先生は、「希死念慮があったんですね。本当に口が硬いですね」と言っていた。そしてその時に、自分は自分で何をするかわからないし、何かがきっかけで誰かを傷つけたり大事件を起こすことがあるかもしれないという話をした。それくらい私はわたしを信じていないという話をした。先生は「その話をしてもらえてよかったです」と言っていた。

 殺人者は凶悪犯罪を起こす人たちと自分はそんなに違わないといつも思う。


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