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安心も信頼も、作り出せない

安心ってどういうことなのだろうか。
信頼ってどういうことなのだろうか。
信用ってどういうことなのだろうか。

本当は、心の奥では、知っていることのような気がする。

なのに、あまりにも、安心とも、信頼とも、信用とも、どれからも程遠い現実が重なっているような現実を過ごしてきてしまった。
親元から離れても、ずっと「そういう現実」を自分で続けてきてしまった。

だから、安心も、信頼も、信用も、心のどこかに奥深くに仕舞い込んで、脳の中でも簡単に取り出せないところに仕舞ってしまって、思い出せないのだろうか。

希望に満ちるって、どんな感じなんだろうか。
元気が湧いてくるって、どんな感じなんだろうか。
心が穏やかって、どんな感じなんだろうか。

安心しそうになると、楽しくなりそうになると、不安も一緒に湧いてくる。
寧ろ、不安がどんどん質量を増して、埋め尽くしてしまうような気さえしてくる。

自分の安心や楽しさは、誰かの犠牲の上に成り立っているんじゃないか、と思ってしまう。
そして、その誰かに、ずっと責められているような気がしてしまう。

「俺の犠牲の上に成り立ってるんだから、思い通りに動けよ」と。
メチャクチャで、とんでもないプレッシャーをかけられているようで、押しつぶされそうになる。心が怯んでしまう。
父親にかけられてきた呪いが、今もまだ心の中に生きている。

安心するにも、楽しむにも、自分も、何かを差し出さなきゃいけないんじゃないか、と、思ってしまう。
何もしない自分のまま、何も犠牲にしないままに、受け取ることに罪悪感を持ってしまう。

両手放しで喜べない。疲弊して、やっと、何かを楽しんでいいと許可を出せたり、精一杯頭を使って悩まないと、受け取っていいと許可を出せない。
一生懸命じゃないと、許されない。許されないと、思ってしまっている。

だから苦しい。ずっと、心の中の自分に、責められている。
自分で自分を責めることを許してしまっている。
自分で自分を責めることで、前に進まないようにしている。
ずっと、困っている自分を、苦しんでいる自分を、親の教えを守って自分を殺し続けている自分を、救えないでいる。

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