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自分なんて信じられなかった

この社会の中で生きるため、私は、ずっと人から貼られるものに頼ってきた。

毎月いくら稼いでいるか。
同年代や同性の平均年収から大きく外れてないか。
普通の会社員として勤められているか。
資格を持っているのか。
どんな会社で働いているのか。
何の仕事をしているのか。
何人くらい部下がいるのか。
年代は、年齢はどのくらいなのか。
どこに住んでいるのか。
社会的信用があって、銀行でローンが組めるのか。
車や家を持っているのか。
結婚してるのか。
子供はいるのか。

外から見える「形」や、誰かが勝手に決めた「基準」を、頼りに、支えにしないと生きていけないと思い込んでいた。

「形」を取り繕えていれば、「基準」をクリアしていれば、「幸せになれる」と思っていた。「幸せにしてもらえる」と思っていた。「見てもらえる」と思っていた。「見てもらえること」を要求してもいい、と思っていた。

それはとても暴力的で、「心」や「気持ち」なんて、どこにも存在していないどころか、踏みつけて、無視をして、壊して、蔑ろにするようなことだなんて、わかってなかった。わかりたくなかった。

「形」に「基準」に縋って、何とか生きてきた自分を壊せなかった。
今まで信じてきたものが変わってしまうことを、何の価値もないことを、受け入れられなかった。

「形」だけ、「基準」だけでは、私が大事だと感じる人たちにとって価値がないこと、気づきたくなかった。

本当は、一番「価値」を感じてないのは、私だった。
そのことに、気づきたくなかった。
自分で自分に嘘をついてきたことから、目を背けたかった。
そうやって何度も何度も何度も何度も、人の気持ちを傷つけてきたことを、
自分はそんな人間だということを、認めたくなかった。

本当は、「形」より「基準」より、「心」を「気持ち」を大事にして欲しかった。大事にしたかった。

親に「心」も「気持ち」も大事にしてもらえなかったから、大事にしてもらえなかったと感じてきたから、「心も気持ちも大事じゃない」を思い込むしかなかった。

それよりも、働けること、安定してお金を稼ぐこと、安定して生活していけること、そこに「価値がある」を思い込んできた。
そうしようとしている「親の愛」を受け取りたかった。認めたかった。わかりたかった。信じたかった。受け入れたかった。

それ以上に、本当は、胸の奥では「心の通った時間」が欲しいと願ってきた。
安心して過ごせる場所、安心して過ごせる空間、安心できる関係性、力を抜いていても脅かされないときが、居場所が、居心地が、欲しかった。

欲しかったけど手に入らなくて、欲しくないと思い込んできた。
自分には、そんな居場所は手に入れられないし、手に入れるためには「お金」を稼がないといけないと思い込んできた。

私自身の気持ちや、心や、想いなんかよりも、「お金」や「会社員であること」や「ブランド」や「値段の高いもの」が価値がないといけなかった。

お金や、資格や、会社員という称号や、安定企業勤めなことや、ブランド品を持ってることや、値段の高いものを持ってられるように、そう生きることが正しいと思ってきた。そうできる自分は「大丈夫」だと思いたかった。

それなら、成り立つから。
親が私に示してきたことが「正解」だったと思えるから。
「お金」がなかったから不幸せだっただけで「愛情」はそこにあったんだと思い込めるから。
この方程式が崩れたら「愛されてなかった」と思ってしまうから。





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