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記録、作品、プレゼント。今の私にとっての『写真とは』

自分にとっての写真ってなんだろう?って疑問、常に頭のどっかにいる。その答えはその時々で少しずつ形を変えていく。

今の私にとってはこういうものかな〜っていうのが朧げに見えてきた。書いてみることでぼや〜っとしたものを形に残したいなと。

私は普段から写真をよく撮る。iPhoneで撮るときと、カメラで撮るとき。無意識に、明確に使い分けてる。

その違いはなんだろう。

まず、自分の中に「残ってればOKな記録」と「ちょっといい記録」の線引きがあることに気づく。

覚えておかなきゃいけない張り紙の内容とか、あとで見返したいバスの時刻表とか。とりあえずスマホに入っていればOKなものたち。シャッターを押して残しているそれらは、記録だ。カメラは使わずに、スマホで撮る。

次に、ちょっといい記録。私の場合はこれが圧倒的に多い。SNSに出してもいいし、出さなくてもいい。出したいなってなったら出せる。写真展には出さない。

カフェで食べたものの写真とか、友達と旅行に行ったときの写真とか。構図は気にするし、レタッチもする。

でも、作品かと言われると「うーん」となる。
日常の延長線という感覚。

作品は、日常感を排除した「絵」のような写真。(ここで改めて補足するけど、あくまで私の場合)写真展に出す写真。飾る写真。その写真を見て、「このとき、こんなことしたなぁ」って思い出すことはあまり無い。

世の中には日常の風景写した作品がたくさんあることももちろん知ってるし、感銘を受けることも多々ある。

ただ、自分の感覚的には日常で撮った写真を作品として出すには結構厳選しないといけない。かといって、「作品を撮るぞ」と意気込んで撮るのは苦手。事前にディレクションして撮るよりも、偶然の産物みたいな、そのときの直感にしたがって撮るのが好き。

この作品と日常の記録の違いを認識したのは、2023年の9月に開いたグループ写真展のとき。前述のように作品用に写真を撮ることができないので、これまでの写真から展示するものを選ぼうとした。

無い…選べない…。

無理矢理選んだのは、どれも4年以上前に撮ったものたちだった。そのときはSONYのa7Ⅲというフルサイズ機を使っていて、毎回RAW現像していた。日常の写真でも作品のように撮ることを意識していた。

弊害としては、色をいじりすぎておそらく当時自分が見た光景とは違うであろうこと。あと、邪魔なものをレタッチで排除しているので、思い出が蘇ってこないこと。作品としてはこれでOKだけど、なんだか寂しい。

寂しい。って思ったってことは、思い出したいのかなと。私は。

日常の写真は作品にするべく撮っているのではない。その日のことを後で思い出すために撮っているのかもしれない。その思い出すトリガーとなる写真を、ちょっといい感じに残したいのかもしれない。

「ちょっといい感じに残したい」と言う気持ちはどこから来てるのだろう。

私は、大学生のときにカメラを買った。当時はiPhone4が出た頃くらい。「写真はスマホで十分」とは言えないくらいの画質だった。写真を綺麗に撮れる装備を持っている人はまだ少なかった。

友達と旅行に行ったとき、カメラで写真を残すと喜んでくれた。「綺麗に残してくれて嬉しい、ありがとう」と言ってもらえた。

カメラを好きになる前の唯一の趣味は、音楽を聴くこと・ライブに行くこと(今もバリバリ好き)

アーティストが曲を出したらそれを受け取る。ライブを開催してくれたらそれに行く。受動的で、アーティストの活動によって充実度が左右されて、自分では何も生み出せていないのが、ちょっとだけコンプレックスだった。

自分が何かの価値を生み出していると実感できるのが、写真を撮るということなのかも。

写真を撮って友達に渡すと喜んでくれる。自分が何かをできる人間と思うことができる。

喜んでもらいたい気持ち・自分を肯定してほしい気持ち。どっちが先なのか、どっちの思いが強いのか、それはわからない。だし、わかりたくない。

じゃあ、自分が写真を撮っても誰も評価してくれなくなったら?私は写真を撮ることをやめるのか?

いや、写真は撮ると思う。

だって、私自身が自分の写真を良いと思ってるから。撮ったときに「よく撮れたな」って満足してるから。

そう、私は写真が仕上がった瞬間がいちばんテンションが上がるんだ。

友人の写真展に行くと「私も写真印刷して飾りたいな〜」とか「写真集みたいにまとめたいな〜」って思うし言ってる。

でも、やってない。言うだけ。

気持ちがノってたらやると思う。そういう人間。波に乗ると考える前に行動する。

でも、やってない。

てことは、印刷したいって思ってないんだ。私。今は。

たぶん、撮る・少しの編集で写真を仕上げるで満足してる。友達に送って喜んでくれたらさらに満足。プレゼントを渡したみたいな気持ちになる。

これをカメラ好き後輩に話したら、「スポーツみたいな感覚なのかもですね」と。

筋トレして身体を鍛えるのは好き。でもそれをボディビル大会で人に見せるための作品にしようとは思わない。みたいな。わかりやすい例え。

日常のちょっといい記録を撮りたい。それを人にプレゼントして喜んでもらいたい。それで自己肯定感も上がる。撮って仕上げるまでがたのしい。好き。それで良いじゃない。

誰かのために撮らなくても、作品にしなくても、発信しなくても。

人の考えっていうのはうつろうものなので、1年後には全然ちがうこと言ってるかもしれない。

2024年2月に考えている、私の中の「写真について」雑記でした。では。

サポートいただけたら、とってもうれしいです。が、無理のない範囲で。