「遅いインターネット」に寄せて

先日NHKで放映され話題となった「平成ネット史(仮)」の中で、宇野常寛さんが確か「遅いインターネット」というキーワードを挙げられていた。
かなり引っかかる表現だ。「遅いインターネット」。決して回線を遅くしようということではないだろう。「遅いインターネット」。ちょっとググってみたらインタビュー記事を発見した。何となく「速く消費しすぎているのでゆっくり使おう」というように読めるが、どういう意識が裏側にあるのか詳細までは掴みきれない。
それでも、僕自身の振る舞いから考え方を省みる中で繋がるところがあるように感じたので、まとめてみる。かなり定性的で抽象的な精神論な話、所謂「ポエム」になろうかとは思うが、伝わるものがあれば幸いだ。

ここからしばらく僕の話をするが、僕は結果よりも過程を重視して行動している。何故か?結果だけを求めて過程を曲げてしまうと、同じ結果でも本来求めていたものではなくなってしまうからだ。同じアウトプットだとしても、プロセスが異なるとアウトカムが異なってしまう、という表現が正しいかも知れない。「角を矯めて牛を殺す」という、正にそれだ。

「形而上学的に」という言葉がある。著名な哲学者によるものでググれば色々と出てくるけれど、僕なりの解釈で述べるなら、「同じものでも、作られた過程が違えば異なるものとみなす」つまり「結果と過程を合わせて事物を観る」という考え方だ。

例えば、仮に科学技術が発展して、あなたと全く同じ人物を合成して創り出したとする。しかし、例え記憶まで合成したとしても、その出来上がりはあなたと同じ過去を有していない。よって、それは別人とみなす。

僕はこの考え方を重視している(もしかしたら、専門家から見ると形而上学的という言葉の解釈そのものは不備があるかも知れないが←実は投稿後にそれは別物です、という有り難い指摘をいただいた。議論の流れには影響ないのでご容赦を!)。同じ結果でも、過程が違えばそれは別物だ。ツイッターで言うなら、同じツイートでも、誰が、いつ、どんな目的で、どんな背景で、誰に向けて、どれくらい時間をかけたものかによっても、その持つ意味は全く違う。100万円を100人に配るやつだってそうだ。

そこまで踏み込んで物事を観ようとすると、これには結構な労力がかかる。色々と調べたり、行間を読んだり、見聞きしたり、反芻したりしなければならない。つまり時間がかかる。しかしながら、昨今の情報流通の速さは凄まじく、とてもそんなことをしている時間はない。その間にどんどん置いていかれてしまう。結果として、一人一人が考える力はなくなり、表面的な結果だけが独り歩きし、ますますインターネットは現実から乖離し、現実から乖離したインターネットだけが現実化し、現実が見えなくなってしまう。「ミッドナイト・シャッフル」だ。

「遅いインターネット」とは、そんな状況を危惧し、もう少し時間をかけて物事を見据えようという提案なのではないだろうか。情報を消費する時代と言うが、寧ろ消費されているのは僕たち自身かも知れない。そんな意識を僕は感じている。

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