自分と他人の実家をつくるということ。
「どなたでも、どうぞ気軽にお入りください」
2012年の8月末ごろ。ある暑い夏の日。ちょっと散歩をしていたときのこと。とつじょ、そんな言葉の書かれた看板のある家が現れました。
昔からある町の静かな住宅街に、どこにでもあるような古い一軒家。その玄関には《うちの実家》と書かれた、もうひとつの看板がありました。
自分はなんとなく気になり、その家の敷居をまたいじゃったんです。ちょうどその直前まで、自分の価値観を180度変えてしまった、あの40日以上のプライスレスな旅を経験した直後だったこともあり、ふらっと入っていきました。たぶん、直前にその旅がなかったら、自分はその家に入っていかなかったでしょう。
そこには《開かれた茶の間》の光景がありました。ご高齢の方が多かったんですけど、若い人の姿もちらほら。あちこちに雑多に置かれた複数の座卓(あとで知りましたが計算されて置かれたものでした)のまわりで、血縁のない互いどうしが、みんな楽しそうにおしゃべりしたり、お茶していたんです。
自分もいつの間にかその輪のなかに入っていて、おじいちゃんやおばあちゃんたちと楽しくおしゃべりしていました。
と、そこに、
「まあ!シェアハウスに住んでいるのっ?」
自分より30くらい年上(なので70歳くらい)の女性と、まさかシェアハウスについて話をするなんて思ってもいなくて、ビックリしました。あとで知ったんですけど、その人が、この《開かれた茶の間》の代表であり、いまや全国に広まった、いわゆる「地域の茶の間」の創始者だったわけです。新潟県が発祥地だったんですね。
それ以来、何度かその家に足を運ぶようになりました。行くたびに新しい発見があったし、とくにおばあちゃんとおしゃべりしたりオセロをするのが単純に楽しかったんです。
そこに、代表の人が絶妙のタイミングで話しかけてきます。
「あそこの床の間に遊び道具が置いてあるでしょ。あれには理由があるのよ。ふつうの家ではお客様をお通しするところで、掛け軸とか飾るような上品なところなんだけど、あえて遊び道具を置くことで、上座も下座もなくなるのよ」
なるほど。たしかにこの茶の間には、上座も下座もなく、みんなフラットな関係。実はそんな仕掛けが随所にあったんです。ハンディキャップを抱えた人も当たり前のように来るんですけど、その人が立ち上がるときなんかに、誰からともなく自然に支えあいの手がさしのべられます。そんな光景にはじめは衝撃を受けていましたけど、それがとても自然体な気もしてきました。
「こんど、わたしの自宅に遊びにいらっしゃいな」
と、その代表の人に誘われたので、さっそくおじゃましました。そうしたら、おなかいっぱいになるまでいろんなものを食べさせてくれて。その後も図々しく何度かおじゃま。すっぱいものが苦手なんですが、その人のつくる梅干しはおいしかったです。
「実家には戻らないの?」
弟夫婦しかいませんので。
「親は?」
中学のときに離婚していて、30年くらい母には会っていません。父も亡くなりました。
「まあ!じゃあ、うちを実家と思えばいいじゃないっ」
なんとまあ、相変わらずあっけらかんとするような物言いなんですけど、そのとき、とても嬉しかったんです。自業自得とはいえ親戚と疎遠になっていた自分にとって、なんだか久しぶりに《身寄り》が持てた気持ちになりました。
そんなこんなで、その後もたまに“実家”におじゃましつつ、全国への旅を続けていきました。ほんとうにいろんな場を体験してきて、そのなかでいつの日か自分の場を持ちたくなって。その集大成として作った自分の住まいが、《住み開きの古民家「ギルドハウス十日町」》です。
ギルドハウス十日町は、自分にとってもそうですけど、みんなにとっても第2・第3の実家であったらいいなと思います。あの家で植えつけられた遺伝子のようなものを、ここに受け継いでいるつもりです。
いつも鍵がかかっていません。床の間には、漫画などがぎっしり詰まっています。サービスを提供する者と受ける者という関係は一切ありません。うちの住人たちもきっとたぶん見知らぬ人が来ても、「あ、どうぞどうぞ」とまるで家族のようにご飯をいっしょに食べたりすることでしょう笑。
だから。
「どなたでも、どうぞ気軽に、お入りください。」
そして、こんな血縁のない自分を、あたたかく迎えてくださり、遺伝子のようなものを植えつけてくださった全国のすてきな場のみなさんに感謝を申し上げます。自分も血縁のない他人との共同生活のなかで、そんな遺伝子のようなものを受け継いでいけたらと思います。
よかったらサポートをお願いします。もしくはギルドハウス十日町へ遊びにいらしていただければうれしいです。