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『ダンジョン飯』で改めて示された野菜クズ≒役立たずの存在意義

※注意※
…短編『竜の学校は山の上』について一部ネタバレあり。ただ作品の全体像については語らないので読んでも差し支えない気はします。

何か金になるものはないかと思って部屋を漁ってしているのだが、九井諒子『ダンジョン飯』(全14巻)を手放すかどうかで悩んでいる。

九井諒子『ダンジョン飯』メルカリ検索結果
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1/4からアニメが始まり話題沸騰、転売屋の動きもあって書店やECサイトから漫画の在庫がなくなり、各ショッピングモールでの需要が急激に高まる未来をなんとなく想像していて「そのタイミングで手放せばいい値が付くんじゃねえか」と思う一方で、

物語の中で示された価値観にノックアウトされた身としては、やはり手放したくない気持ちが極めて大きい。「平成後期に流行したグルメ漫画の走り」という評価では明らかに足りない。一生手元に置いて何度も何度も読み直したい。

■経済的合理主義と向かい合う人々

『ダンジョン飯』、もしくは九井諒子が描く短編集の良さは「社会性の高さ」に尽きると思う。"人間かくあるべし"という価値観、規範の高潔さと言い換えても良いかもしれない。

九井諒子が描く漫画の登場人物は総じて優しい。なぜそのように感じるかといえば、登場人物がみな経済的合理主義とは別のベクトルを向く価値観を持っているからだ。

「金なし白祿」を筆頭に、みんなお金と縁がない。

九井諒子が描く物語は、竜が我が物顔で空を飛び回り(竜の小塔)、巻物から飛び出た虎が都を駆け巡り(金なし白祿)、死んだ人間が魔力により生き返るような(ダンジョン飯)異世界空間で展開されている。

どれもギャグテイストに富む作品で、どうしても最初は登場人物の行動(奇行)に目が行くから作品の背景には目が行きにくい。

ただ、作品世界には人間、もしくはオークやドワーフ、エルフたちの商取引と経済社会が社会基盤としてまず存在しており、そうした土壌から生まれる経済的合理性はときたま(もしくは物語の序盤から)登場人物たちに牙を向く。

九井諒子の作品の多くは、そうした経済的合理性に翻弄されつつ対峙する人々のストーリーと言って良いだろう。

事実、九井諒子初期の短編『人魚禁漁区』『竜の学校は山の上』は、人魚や竜といった現代社会では"無用の長物"と成り果てた存在とどう人間が折り合っていくのか(もしくはどう折り合わせるつもりなのか)を主人公たちが考える物語だ。

登場人物たちは"経済的合理性"に自身の行動指針や判断、意思決定を揺さぶられ、ときに悩み、心を折られて、それでもなお立ち上がる。

経済的合理性が"役立たず"に突きつける非情さに対して、不屈の精神で向き合う人物たちへの讃美歌こそが九井作品の核心なのだと思う。

■"役立たず"は全員いなくなるべきか

登場人物と経済社会との対立は、一見グルメ漫画に見える『ダンジョン飯』にもテーマとして引き継がれている。

ただ、本作の場合はあくまで「ダンジョン内での食事」を主軸に物語を展開させているため、こちらテーマは登場機会が少ない。一応"欲に目が眩んだジジイ"が敵に回るシーンなんかはあるのだが、どちらかといえば「食」を主軸に据えているためにテーマとしては後景化している印象がある。

しかし私は、短編『竜の学校は山の上』のラストで提示された"役立たず"についての見解が、『ダンジョン飯』というグルメ漫画のラストでふたたび提示されたことに涙した(※漫画の中で指摘された登場人物も泣いていた)。

誰が誰にどんなことを言ったのかは、アニメ版が完結するまでのお楽しみとしてほしい。また既に原作を読み終えている方は、経済的合理性がサブテーマであることを意識して各登場人物の行動を振り返ってみてほしいと思う。きっと新たな発見があるはずだ。

■役に立つものと、これから役に立つものと

まだ何も諦めなくても良いのである。

経済的合理主義を信奉する者を敵対勢力とすること自体は、創作物においては陳腐でありふれた手法なのかもしれない。

ただ『ダンジョン飯』では経済的合理性との対峙というサブテーマを「食は生の特権」というメインテーマにうまく接続する形で回収したように見えた。

「食は生の特権である」ならば、「生の謳歌」は食なしには達成し得ない。

しかし、世の中には、食欲のない人(エルフ!)がいる。また、その先にあるはずの"生の充実"ーー経済活動や社会の維持という自らに課されたはずの使命から、不本意ながら離脱してしまった人がいる。

そうした人たちに対して、作者である九井諒子の態度は実に誠実で、一貫性の高い答えを示していると思う。

* * *

短編『竜の学校は山の上』のラストシーンで、現代における竜の存在意義を問われた香野橋部長はこのように答える。

「なくしてしまったものを あれは役に立たなかったってことは言えるけど それは所詮 狐の葡萄」
「だから簡単に捨てちゃいけないんだ」

『ダンジョン飯』の最後で一見唐突に提示されたよつに見えたあのシーンは、この短編ですでに提示された規範をリピートしているものと考えると、九井諒子作品全体の解像度がさらに上がるのではないだろうか。

というわけで、『ダンジョン飯』が楽しいと思った方はぜひ短編集の方にも手を出して欲しいと思うのでありました。

九井諒子『竜の学校は山の上』メルカリ検索結果
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