「観光公害」の是非を論じる難しさ

京都は年中混雑するようになり、清水寺や金閣寺、伏見稲荷などの主要観光地は日本人観光客が減って結果として外国人観光客ばかりになったというのは体感的には明らかだ。記事中でインタビューを受けている大学の先生のようにこれが「問題だ」と指摘する人は多い。

そして、実際に春や秋のピーク時の交通渋滞もかなりのものなので、そういうったエリアに居住地がある方などは、公害だと嘆く声も多い。

しかし、課題に対しての対応策や有効な具体策というのは、京都のみならずほとんどの観光地で採られていないのが現状だ。 たとえば有名地に集中しすぎる観光客を、どうやって分散させるのか? 名所が見たいという普遍的な欲望を制御することはそもそも可能なのか? 時間帯による価格差などは分散化に対して有効に機能するのだろうか?

ある意味「勝手に来てしまう」観光客を、どうやって減らして、どうやって渋滞を解消するのか? 同じ道を走るバスを、住民専用と観光客専用にそもそも分けたりすることはできるのか? などなど、「観光公害」に対する処方箋となると、記事と同じく急激にトーンダウンしてしまい、精度が高そうな案も出にくいのが現状だ。

そして、前提として、そもそも現状のように「キャパシティ以上」の観光客が押し寄せる京都や、その他の町にとって、どれほどのプラスの効果があるのかも、厳密には測定できていない。一部ホテルや旅館、レストランなど観光セクターの企業には当然プラスになっているのだろうが、それ以外の分野の企業にとって、何かプラスはあるのだろうか? 京都を例にとってみれば、観光振興はこの町にとってどれだけの意味があることなのだろうか?

意外とこのあたりがポイントで、観光公害だ、これ以上観光は要らない、と言っている人の多くが、観光によるプラスが期待できない産業であったり立場であるケースが多い。

つまり観光公害の真の構図は、同じ都市における利害対立なのではないだろうか。観光によって恩恵を受ける一部の企業と、それ以外の、デメリットばかり多い企業や市民。もしこれが課題なのだとしたら、分散化や交通対策などはあまり意味をなさないことになる。

観光を語る時、そのような、立ち位置をいったん抜きにした(あるいは逆にした)冷静な議論が求められるだろう。


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