高齢者福祉の概観①

今後の高齢者福祉がどのような理念、思想のもと、誰によって、どのように行われるか、という問いに取り組むべく、まずはこれまでの日本における高齢者福祉についておおまかにまとめた。

本記事では、明治以前から1963年の老人福祉法制定前までをまとめたものになる。

明治以前

日本は古代や中世において、児童、高齢者、障害者、傷病者などが貧困者として一般救貧施策の一部として救済されていた。救済の基本は家族や近親者による相互扶助、それがない場合は地域共同体による救済が義務付けられていた。

明治から老人福祉法まで

 1874年に恤救規則が制定される。これは全国的に統制された初の救貧制度だが、国家に公的扶助の責任や義務はなかった。制度の支給対象は、働けない高齢者、児童、寡婦、障害者のうち、近親者や地域による相互扶助を受けられない「無告の窮民」に限定された。高齢者は70歳以上の者が対象で、保護率は0.2%程度だった。
 当時は貧困問題は社会の問題ではなく個人の問題であるという「個人責任論」や貧困者の救済は怠惰の容認につながるという「惰民養成論」、親の扶養は家族あるいは地域で担うべきという「家族・隣保相扶」といった思想が一般的であり国民の同意を得られなかったことから公的扶助は発達しなかった。とくに高齢者の介護は家事や育児と同様に長男の嫁の役割となっていた。
 また、明治期になると民間の養老院が設置され、これが今日の老人ホームの源流となる。また、民間団体だけでなくキリスト教や仏教などの宗教関係者の慈善活動も盛んに行われるようになった。20世紀に入ると民間の慈善事業の組織化が本格化し、1908年には現在の全国社会福祉協議会の前身となる中央慈善協会が設立された。

 1929年には恤救規則に変わる社会政策として救護法が制定される。背景としては、1918年の米騒動や1923年の関東大震災、1929年の世界恐慌などにより貧困者が急増し、恤救規則では対応しきれなくなったという事情がある。救護法の対象者は、扶養義務者が扶養できないという前提で、65歳以上の老衰者、13歳以下の児童、妊産婦、障害者などが該当した。また、生活保護を目的とし、居宅保護を原則としながら必要に応じて施設保護も行われた。これまで高齢者を保護していていた養老院は、救護法における救済施設として公費が給付されるようになる。養老院の数は救護法の成立以降増加したが、行政主導の官民一体的な特徴も強まった。
 救護法により、それまで慈善事業だった貧困者の救済が社会事業へと転換したといえる。

明治以前から恤救規則、救護法に見られるように、日本では公的扶養よりも家族や隣人などによる私的扶養が優先されるという特徴があった。この特徴は封建時代から続く五人組などの地域共同組織に由来すると考えられる。封建制のもとでは、地域組織が納税などに関して連帯責任を負い、相互扶助組織としても機能していた。明治期に入ると、社会変動により農村でも都市でも地域互助が次第に機能しなくなるものの、私的扶養を優先する思想時代は現代でも根強く残っていると考えられる。

 第2次世界大戦に破れた日本は困窮者が急増し、社会秩序が乱れた。このため、GHQの指示の下、社会福祉の第一の課題を貧困者対策として、新たな憲法や仕組みが再構築された。新しい憲法では、25条において生存権の保障が明記された。
 1946年には多くの生活困窮者の生活を無差別平等に保護することを目的として、旧生活保護法制定された。扶助についての無差別平等と国家責任という原則が初めて確認されるが、実際の生活保護行政は市町村長を補助する方面委員(後の民生委員)が担う仕組みとなっていた。一方で、1950年には旧生活保護法を全面改正して、新生活保護法が制定された。実施機関は市町村長と有給の専門職である社会福祉主事とされ、民生委員は協力機関という位置づけに交代した。
 戦後は養老院の位置づけも変化した。養老院は、旧生活保護法のもとでは保護施設に位置づけられ、新生活保護法では養老施設に名称変更された。生活保護法における高齢者福祉の目的は、これまでと同様に経済的に困窮した高齢者の救済であり、貧困の高齢者が養老施設に収容されて救済された。また、施設の保護費の全額が公費で支給されたことにより、養老施設は急増した。
 1950年代の高齢者福祉において、在宅福祉も公的事業として行われるようになった。1956年に長野県で訪問介護の前身である家庭養護婦派遣事業が開始され、その後大阪や東京、名古屋などの大都市に拡大、1962年からは国庫補助事業となった。ただ、当初は生活保護法による低所得者を対象とした居宅サービスであった。
 また、1959年に国民年金法の老齢福祉年金制度が創設され、1961年には国民健康保険制度が開始された。これにより国民皆保険、皆年金が実現した。この時期は、人々の高齢者および自身の高齢期への関心が高まり、高齢期の生活を支える仕組みが整備されるようになった時期だといえる。 

以上より、明治以前から1950年代までの社会保障において、高齢者は高齢であることではなく貧困であることを根拠に救済を受けていたといえる。当時の社会保障の理念は貧困者の救済であり、救済の対象である貧困者の中に高齢者が含まれていたと考えるべきだろう。
 また、貧困者の救済は戦前においては原則家族や隣人の役割であり、そのような扶養者がいない場合に限り公的な支援として養老院への収容などを受けられた。そのため、公的な保護を受けられる高齢者は限定的だった。一方で、戦後は生活保護法において無差別平等や国家責任が原則となり、公費で運営される養老施設で貧困者が収容された。これは貧困者の救済の責任が家族や隣人などの保護者から国家へと変化したといえる。

次回は1963年の老人福祉法から現代にかけてまとめる予定。


参考

『高齢者に対する支援と介護保険制度 <第5版>』,福祉臨床シリーズ編集委員会 編・東康祐 責任編集・原葉子 責任編集
『社会福祉学』,平岡公一・杉野昭博・所道彦・鎮目真人