5 福祉という会社、支援者という会社員

4 支援における価値観とは
https://note.mu/welfare/n/n99cdf004876b?magazine_key=m8d74f67f43fb

支援者が持つ支援の引き出しの中から、
最高のものを目の前の利用者に与えようとしたとする。

そのとき、
支援の先にある利用者の最善の姿を「自立」とするのか
「ありのまま」とするのかでは、
たとえ「利用者の成長」という目標が同じだったとしても、
支援者の姿はまるで違ってくるのではないだろうか。

最善の支援をしようと思ったとき、
いろいろな選択肢の中から選び抜いた、支援者なりの答えがあるはずだ。

それを、最も考えた支援ということで、ここでは「最考の支援」、
という呼び方をする。

それは「どのように支援をすればいいか」に対する答えだったり、
「何をもって支援とするか」という問いへの自分なりの定義だったりする。

「支援」の本質とは、「支援者の在り方」そのものだとも思える。

支援者は、利用者のために持ちうるすべてを駆使して、取捨選択し、
洗練させて、関わっていくことになる。

支援者は利用者のためにある。

それは一つの関係においてはそうなのだろうけれど、
私自身が長く福祉の現場に携わってきて、
どうもそれだけではないようにも思っている。

ここまで読み進めてくださっているあなたは支援者を、
企業組織の一員として捉えたことはあるだろうか。

福祉の仕事を目指しているときは、
支援を必要としている人の支えになりたい一心で、
就職活動を行うかもしれない。

でも、私はこの「支援者も組織の構成員である」という事実を、
しっかりと意識しておくことは、
支援の在り方を考える上で大切なのではないかと思っている。

支援者を雇用しているのは、大抵、一つの組織であり、法人や企業である。

支援者の大半は、そういった組織から雇われて、
顧客である利用者の支援を行い、
労働時間の対価として給与をもらうことになる。

この場合、「支援者は利用者のため」に働くが、
一方で雇い主である「企業のため」に働いているとも言える。

さらに企業とは、人の集合である。社長なる組織のトップがいて、
運営をする役員や理事からなる総会があり、
その下に役職者や正規・非正規職員がいて……と、
ピラミッド型に指揮命令系統ができあがって、
組織というものは成り立っている。

そうすると、支援者は、利用者のためでありながらその実、
指示を仰ぐ上司や所属している組織のためにも、働いていることになる。

 支援者は、確かに利用者のために働いているというのは事実だ。

しかし、個人経営でもない限り、その収入は組織の収入になる。
利用者のためだけに、自分がいるわけではない。

企業の理念が、「この組織は顧客のために存在している」、
とその存在意義を掲げているにすぎない。

組織に加わった以上、
前提として企業理念に共感・賛同しているということになるし、
企業理念の体現者として、
目の前の顧客に関わることを約束することになる。

働くということはそういう性質を持っている。

支援者にとって、
顧客である利用者と
信頼できる関係性を作っていく作業は必要ではあるのだが、
それ以上に、
自分の所属する組織の人たちとの関係作りが重要ではないかと思っている。

なぜなら、個人的な努力と同時に、組織的な連携が必要だからだ。

利用者を支えるのが支援者だとして、
支援者を支えるのは誰なのかを考えてみると分かりやすいかもしれない。

支援者が利用者に望んだことが、その通りになることは多くない。
 
仕事とはときとしてとても理不尽だ。

利用者と関わることは、やりがいもあるけれども、地味で報われず、
大変なことも、圧倒的に多い。

この大変さも喜びも、
守秘義務を負っている以上は
不特定多数の他者と共感できるものではなかったりする。

唯一、仕事の苦楽を共感できるのが、
支援者同士の関係によるものだと思っているし、
だからこそ、支援者は互いに支え合いながらやっていくことが必要になる。

それにも関わらず、支援者が誰かの支援をけなしたり、
一方的に否定したり、認め合わない姿を見るのは、とても寂しい。

そういうとき、誰の支援が正しいとか、誰の支援が間違っているとか、
利用者の存在を置いて支援者同士でいがみ合っているように
感じることがある。支援について考えるとき、
考えるべきは「正しいかどうか」ではない。

利用者(の状態や段階)に合致するかしないか、であるはずだ。

支援の苦しみも、喜びも、分かち合うために必要なのは、
誰が正しいかとか、偉いかとかに関係なく、立場や経験を超えた、
共感と受容に基づく励ましの姿勢ではないだろうか。
企業的な視点で見ると、
支援者はたった一人で支援をしているわけではないのだから。

1章の中で、
利用者にとって支援者が不要になっていく過程を喜べないと、
この仕事は虚しくなるのでないか、と述べた。

これは支援者が利用者のほうを向きすぎているからこそ起こる話であって、ここに先ほども少し触れた「利用者‐支援者‐組織」
という三者関係を持ち込むと、話は変わってくる。

支援者の力を利用者に向けるのは真っ当だが、問題になってくるのは、
支援の結果として支援者に還元されるべきものまでをも、
利用者に求めることにある。

要するに支援者が利用者に対して見返りを求めたり、
過度に成長を期待したりしてしまう、ということだが、
ここに組織との関係を持ち込むと、
支援者と利用者との関係は風通しがよくなる。

お金の流れから言っても、それは言える。

利用者に力を向けた支援者は、
その還元を給与や賛同、
承認といった形で組織から受ける。

組織には、構成員同士の承認や受容、励ましが求められ、
その努力に応じての見返りは待遇面の改善になる。

自分を中心とした、利用者と組織の関係性を明確にし、
その関係の中で力を与えることと、
その還元を受け取ることを循環させていく。

その一方で、支援者は絶対的に、
利用者のために存在していることは忘れてはならないと思う。
福祉の仕事においては、働く意味や、意義、理念や目的など、
すべては利用者に集約される。

しかし、「利用者のために」という想いが大きくなりすぎてはいけない。

支援者は他人だ。
家族でもない。
友達でもない。

支援とは、
真っ白な他人から始まった関係で、
あくまでも利用者と支援者としての関係でしかない。

ここを押さえておく必要がある。

支援者はその時々で必要な役割を担う。
親のように、友達のように、
あるいは先生と生徒のようにもなる。

でも、大前提として、そのどれでもない、
「支援者」として、利用者の前にいる。

ご飯を作るだけが仕事ではない。

家庭や学校における育ちと同じだ。
ご飯を食べさせるだけが養育ではないし、
勉強を教えるだけが教育ではない。

支援者は目の前の利用者と関わり、振り返りながら、
一つ一つに答えを出して、向き合っていく。

人と人との繋がりとは、物で釣るのでもなく、
過剰な罰則や称賛で繋ぐのでもない。

サービス業として見るならば、
良い支援と悪い支援の差は、
この「関係の純度の高さ」にあるのではないか。

通常、客は商品を得るためにお金を払う。

福祉においては、
形のない何かを「してもらう」ためにお金を払うことになる。

ここでの商品は支援者という
「人」そのものとは言えるのではないだろうか。

四章 「児童」と「障害」の領域を超えて

1:幸せな生活とは
https://note.mu/welfare/n/n73135b14462f


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