2:グループホームについて

1:幸せな生活とは
https://note.mu/welfare/n/n73135b14462f

私が学童の次に就職した施設は、三つの事業所を運営していた。

ここでは各施設がどのような役割を持っていて、
どういう方向を目指すものなのかを考えたい。

これは理想かもしれなくて、実態とは違うこともあるかもしれない。

それでもこれら事業所が抱えている命題は突き詰めれば、
種別や業界を超えて、一つの支援の形を示しているような気がする。

一つは知的・精神の障害者が入居する共同生活援助(グループホーム)だ。

利用者がここに辿り着く過程は、大きく二つに分かれる。

一つは親の高齢化や養育能力の不全によって、家に代わる場所を探す場合。

もう一つは、虐待や離別、
あるいは暴力などによって家庭とは切り離された環境で
生きていくことを余儀なくされた場合だ。

後者の場合に、
利用者が「児童養護施設」などの「児童」の施設に在籍している場合、
グループホームに移行するということとは、
単に住まいが変わるということではなく、

「児童」施設から「障害者」の施設という大きな「切り替え」
を経験することを意味している。

社会福祉で扱う領域がまるっきり変わるため、
利用者の扱いも「措置」から「契約」へと変わる。

契約の主体者が利用者自身になるのだ。

今までは「措置」として、
一方的に大人たちから決められてきたのに、
突然「大人だから」「契約だから」と
「自分で決める」ことを余儀なくされて「障害者」の施設にやってくる。

この葛藤や戸惑い、
あるいは心細さや自らの境遇に対する不条理への怒りはどれほどだろう。

このような境遇の多くの利用者が、大人との関わりで傷ついてきていた。

子どもは大人の言うことを聞いて当たり前。
言うことを聞かない子どもはダメな子ども。
良い子以外認めない。

そういう圧力の中で自分を押し殺して努力し続けて、
結果的に自分を追い詰めて苦しんでもいた。

だから、利用者の多くが、そうした大人たちへの怒りをあらわにしていた。

精神的な未熟さもあって、世の中への考え方や大人への見方など、
物事の考え方が屈折しているものの、心は大人になってきている分、
関わり方には細やかな対応が求められる。

子どもに寄り添うように繊細に関心を寄せながら、
大人であることを尊重して意見を大事にして、
それでもすべてを受容するのでなく、
世の中は(施設は)こうなのだ、
と決まりを守る大切さを伝えていくような関わりだ。

彼らは少しでも自分が軽んじられた、損なわれた、
一方的に決められた、と感じると、
支配されてきた感覚や怒りに伴って、
感情が高ぶってときには暴力に出たり、またあるときは出て行ったりした。

内的な課題が行動化してしまうこともあるのだ。

自主性を尊重しながら、自我を育てていくことがいかに難しいか。

社会的な規範を示すだけなら簡単だが、
彼らは社会から半ば迫害されるような環境で生きてきた人たちだ。

そういう人たちには、正しさを示すよりも、
その境遇への全体的な受け止めが必要な気がしている。

苦しさを一緒に受け止めながら、
生きて行くことや前向きな選択を選びなおす。

一見すると支援者がいいなりになっているように見えるかもしれないし、
全然支援になっていないように見えるかもしれない。

でも結局そこからしかやりなおせないとも思う。

傷ついた経験があって、心がある一時点で立ち止まっているなら、
そこまで下りて行って、共感して「痛かったね」と寄り添って
「一緒に頑張っていこう」と語りかけたい。

支援者は家族ではないが、家庭的な構造を利用して、
「父」や「母」などの役割を技術的に演出していく。

彼らはグループホームでの生活を通して、
これまでの人生の中で損なわれていたものや
得られなかったものを少しずつ手にしていくことになる。

しかし、
これまでの経験の中で蓄積したぬぐい切れない大人への不信感から、
本当に自分のような存在に愛情や共感を与えてもらえるのかと
恐怖を感じたり、信じられなかったりする。

だから、まずは他者を信じることから始めることになる。

しかも、こういう状況下にある彼らの多くが、
そもそも自分を信じられていなかったりする。

支援の過程で、
彼らは失われたものを取り戻していく作業が必要になってくる。

 利用者は契約に伴い、居住空間は施設になる。施設が家になる。
そこでの支援は朝と夜の食事提供と見守りだ。

利用者の生活の流れを把握し、
仕事や日中活動先へ行けるように流れを整備して、
帰宅して食事から入浴、
睡眠~翌日の起床までが滞りなく行えるように見守り、
支援を行うことになる。

朝食、夕食の提供とは、ただそれだけを指しているのではなく、
起床と就寝の流れを含むことも意味している。

施設によってはそのような人員配置が組めないかもしれないけれども、
一日を一般的な勤務の8時間で朝と夜とで分けると
だいたいそのようになる。

グループホームで働く支援者は、生活の流れを組み立てながら、
同時に利用者の障害の傾向、苦手な生活場面を汲み取ることが必須になる。その人なりに主体的な生活ができるように見守っていく。

グループホームという場所での支援は、
「利用者に何をするか」に目が行きがちだが
「利用者にとって支援者がどのような存在か」
ということも実は大切になってくる。

支援者が持つ「家庭」や「家族」の感覚が如実に表れるからだ。

たとえば支援者の「家」のイメージが
「リラックスできる場所」であるなら、
きっとそうなるようにふるまうだろうし、
「きちんとしつけを教わる場所」というものであれば、
そのように接するだろう。

あるいは、「母」のイメージが、
口うるさくて注意ばかりするイメージであれば、
そのように指導するかもしれない。
「父」のイメージが受容的であれば、
利用者がルールを破ったときに、
おおらかに受け止めながら優しく諭すかもしれない。

そこにいるであろう「母」や「父」、
「妹」や「弟」といった家族について、
その役割を支援として再現していく。

必要に応じて母性や父性を意識することになる。
たとえ用語を知らなくても、自ずとそうなっていくのではないだろうか。

ホームの生活から利用者の生活課題を知り、利用者の状況に応じて、
支援者の役割も変えていく。
「母の役割」が次第に受容的になるかもしれない。
「父の役割」が、より厳格で、
ルールに対して明確な基準を示すものになってくるかもしれない。

支援者がここにいて、目の前の利用者がしたことに対して、
どう関わっていくのか。

生活に必要な要素の全てが支援として問われるのが、
グループホームで働く=生活を支援する、ということになるのだ。

食事や片づけ、門限といったごく当たり前のことでさえも、
その意味や意義をきちんと考えた上で、
利用者の支援に繋げていかなければよりよい支援とはならない。

「ご飯ってどういう意味があるのだろう」
「片づけるのが大切なのはどうしてだろう」
「門限はなぜ守らなくてはいけないのだろう」

これらに「決まっているから」と結論を出すのは簡単だ。
しかし支援者は利用者との関わりで、一つの解を示していくことになる。
そのとき、支援者が出した答えが、支援者の行った支援の意味になる。

家の中で人が育っていくとき、参考にするのは自分と親との関係であり、
自分の育ち方である。もしそこに何らかの問題があれば、
もしかしたら利用者と類似した課題を抱える
「当事者」になるかもしれない。

利用者と向き合うということは、
自分の成育歴と向き合うことも意味している。

悩むことになることもあるかもしれない。
未解決な課題と向き合うことでもあるからだ。

当時の幼かった自分の未解決な感情が引きずり出され、
冷静さを欠くかもしれない。
取り乱したり、巻き込まれたり、落ち込んだりするかもしれない。

しかし、グループホームは利用者の家であって、支援者の家ではない。

支援者には帰る家があり、
安らげる場所がある。

(利用者にとってのホームも
 そのような場所として在るかどうかを絶えず振り返りたい)

支援者にとって「仕事場」という距離感があるからこそ、
その日の自分の言動について振り返ることができ、
冷静に、そのときの自分を見つめなおすことができるのだ。

家の中で人が育っていくとはどういうことか。
支援者は日々考えながら支援をするだろう。

そこには育ちなおしの意味が含まれるのだろうし、
家族のように利用者の成長を願う眼差しも含まれるかもしれない。

その過程で距離が近づいたり、
慣れていく時期には
利用者の抑圧されていた怒りや反抗期のような激しいものが
出たりするかもしれない。

あるいは、
支援者の方にこれまでの関わりからくる何とも言えない寂しさが
表れるかもしれない。

支援者の関わりが、利用者の人生の一部に直接的に反映されていく。

そして、支援の結果は良くも悪くも、すべてが支援者に返ってくる、
非常にシビアな職場である。

しかし、その過程で支援者は何とも言えない絆や情、
手応えなどといったやりがいや喜びも感じる。

福祉に携わる人の多くが、その手応えを知っている。

母親はわが子を産んだ瞬間から「母親」になるのではない。
子育てを通して「母親」という存在へとなっていく。

支援者も同じだ。
支援者として、利用者の前に立った瞬間から、支援者になるのではない。
彼らへの支援を通して、支援者として成長していく。

そういう意味では、
利用者は支援者を成長させる要因になっているとも言える。
けれどもそう考えると、果たして支援者が利用者を一方的に成長させる、
というような図式は正立するのだろうかと、立ち止まってしまう。

それは支援者のよりよい在り方なのだろうか、と。

何かそこには、
支援者側の正しさを誇示するような姿勢がありはしないだろうかと、
私は自分を戒めてしまう。

自信を持つことは大切だし、毅然とした態度も必要だ。

けれども、私はいつも揺らいでしまう。

迷いながら、一つ一つ、支援における最善の答えを出したいと、願う。

そこには学びの相互作用があるように思える。

利用者も支援者も役割を脱ぎ捨てればただの人で、互いに学び合い、
そして成長している。

そういう関係性ではいけないのだろうかと、思う。

3:作業所について
https://note.mu/welfare/n/nc72723da69b1

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