4 「ただの他人」から支援は始まる


3 「自立」と「幸せ」
https://note.mu/welfare/n/nf34737ddd9a6


人が成長していくプロセスには、他者への信頼が土台にある。

その土台を愛着と言い、すべての人間関係の基礎になっている。

生まれてから誰かと結婚するまでをおおまかに追うとこのようになる。

生まれたばかりの新生児は親に依存するしかない。

必要なのは自分が泣いたときに傍にいてくれる存在であり、
空腹になったら母乳を与えられ、
排泄をしたらおむつを替えてもらえる存在だ。

親に依存して、
世話をしてもらうことで得られた「安心感」が積み重なると、
「この人は何かあったときに傍にいてくれる」
という経験による信頼感もあいまってより強い安心感になる。
この感覚は「この人は裏切らない」という絶対的なものになる。

この段階から、人間関係の素地作りは既に始まっている。
それは人を信じる、という感覚を知る、ということでもある。

人を信じ、安心するに従い、挑戦したくなってくる。
依存している人から離れていくことは、それだけで冒険だ。

帰ってきたら、親はいつもと同じように、
あたたかく迎えいれてくれなければならないが、
これが親の機嫌次第で迎え入れることがあったり
突き放すこともあったりすると、経験則から生じる安心感は、得難くなる。信頼感はなおさらだ。

傍にいる見守り手が変わらずにいてくれることをより所にして、
人は挑戦を繰り返す。そういう場所を、そもそも人は求めている。

家が帰るべき場所だとするなら、信頼のできる人の存在は、
それだけで戻るべき場所にもなりえる。

次第に、その距離感は離れていく。心の中に根づくからだ。
(自分の中に取り込む、とも言う。)いなくなっても平気になってくる。

自分の意思を持ち(自我、とも言う。)反発や反抗もしたくなる。

より離れようとする。自分の考えと向き合い、親の考えを知り、
葛藤の中で、また一つ、進んでいく。

そして親に頼るでもない、
自分の力で生きていこうとするとき、自分はこの社会で、
どのような意味があるだろうかと考える。

自分を活かすための方法を模索し始める。

それと「仕事」が重なったりするかもしれない。
そこでつまずくと、自分は生きている意味がない、と自信を失ったり、
社会は自分を必要としていないのではないかと
恐怖することになってしまう。

しかし、不安にあっても「自分は絶対に大丈夫だ」という感覚や、
「帰る場所がある」という確信があれば、
そのような状況でも前向きに取り組めるだろう。

そのとき人は外側の世界にも似たような場所を見つけ出すことができる。
あるいは作り出すことができる。
もしかしたら好きになった人と一緒に、家庭や家族を作るのだろう。

そして、もしも好きになった人との間に子どもができれば、
自分がされてきたように、ごく自然に子どもにしようとする。

何か親から与えられた苦痛があるとするなら、
また子に与えてしまうことを繰り返すかもしれない。

これは不適切に育てられたらこうなる、
という話ではなく、ごく一般的に、
人は与えられたものを他人にも与える。
育てられたように、育てるという話なのだ。

ここで書いたような話は発達心理学という分野の
「発達課題」という理論でまとめられている。

この理論の大事なことは、乳児期、幼児期、
などそれぞれのライフステージに
克服すべき課題があることを提示していること。

そしてこの段階をすべて完璧に達成している人はいないことを
示唆していることだ。

「完璧な人間はいない」こう書くと、誰もがうなずくと思う。

けれども、それが意味することを、時々人は忘れてしまう。
完璧ではない、不完全ともいえる存在である人間が人間を育てるのだから、
そもそも人を育てるという過程は、難しいものなのだ。

見方を変えると人間は、
生涯成長し続ける存在であるという点も見逃せない。

これらを踏まえて感情を考えると、
とても扱いが難しい性質であることがうかがえる。

家庭の育児で、仕事の指導で、あるいは福祉の現場で、
感情的に湧き上がるものや、
自分で律するのが難しい心の揺らぎというものは、
自分と相対した人との発達課題が対になって表出する場合がある。

自分が成長してきた過程で、
置き去りにしてきた部分や育っていない部分が、
対応する課題を有する人に向き合うことで否応なく引きずり出される。

だから、理性で律することはとても難しいのだ。
当時の未解決の課題が感情となって現れるからだ。

支援をしていくためには、この自分自身の感情に自覚的になり、
理性を働かせて、感情と思考のバランスを常に取りながら、
思い込みや価値観に気づいて受け入れていく、ということの連続が必要だ。

福祉の仕事とは、言うなれば、心のアスリートのような性質がある。
(学童で私が感情的になっていたのは、当然の流れだったのだ。)

ここまで人が成長していく過程と必要な関わりを追ってみた。

これらを支援の現場に当てはめて考えたとき、
利用者の「成長」の流れはこのようになるのかもしれない。

支援者は信頼関係を利用者と築いていく。
お互いにどのような人なのか、
支援者が耳を澄ませるように、利用者もまた、耳を傾けている。

その駆け引きのような応対の中で、過去の経験を引き出しとして、
自分の価値観と照らし合わせながら、
線引きや姿勢を含めた関わり方が自然と決まっていく。

両者にとっての距離感が、決まってくる。
そこからの関係性の変化もまた、同時に示唆をされながら。

信頼関係は、成長発達を促すための基礎となるものだ。
支援者を信頼した利用者はその言葉を信じようとするだろう。
励まされれば意欲が沸くかもしれない。

それはあらゆるパートナーシップに通じるものであると思う。
信頼の仕方はそれぞれにある。その人の行動で判断するかもしれない。
言葉かもしれない。表情や雰囲気かもしれない。

しかし、支援者が手応えを感じていても、利用者の感じ方は違っていて、
表面的に、そう振舞っているだけかもしれない。

反対に支援者が利用者の拒絶を感じたとしても、その態度の反面で、
利用者は希望を胸に、支援者との関わりを切望しているのかもしれない。

両者の心の動き、価値観や反応、そこから選ぶ行動。
ありとあらゆる要素が絡み合いながら、関係とは作られていく。
その中には、願いも含まれる。

その合致とすれ違いを絶妙に繰り返しながら、ほんの少しの期待と、
ささいな失望を経ながら、水面下の心の動きと感情が、
表面的な言動を連れてくる。

つまり、知識や理論は、
その表面的な言動を専門的にコーティングするというだけで、
関わりの質というものは表面的な言動の水面下にある
その人の考え方や受け取り方に伴う反応の仕方で
ほぼ決まってくるのではないか。

利用者から一言を投げかけられたとき、
それに対して支援者はどのような態度で、
どのように反応し、どのような言葉を返すのか。

そのたった数秒かもしれない時間の積み重ねで、
信頼関係は作られていくのだとしたら。

関係を作っていくために必要なものとは何であるのだろう。

利用者への思いなのか。企業的あるいは職業的な理念か。

それだけではないような気もする。

もっと根本にある、その人が持つ、
人間性とでもいえるようなものが大きく関わっているように思う。

知識だけではなく、思いだけでもない、何か。
もう少し具体的な例で考えてみたい。

たとえば
利用者の「死にたい」という言葉や
「生きるのがつらい」という吐露に対して、
支援者はどのような言葉をかけるかを考えてみる。

グループホームで関わった利用者が、幼少期は虐待され、
学校ではいじめを受け、
誰からも生きにくさを理解されずに心に多くの傷を負い、
自暴自棄になり、「死にたい」と口にしたなら、
私も「死にたい」と思ったことがあるから共感できることもある。

その人の痛みに思いを馳せて、それくらい傷ついてきたのだろう。
ということをうなずきながら言葉にしていくと思う。

しかし、「死にたい」と思ったことがない人が支援をするとき、
共感はたとえできなくとも、

一般常識的に「そんなことを言ってはいけない」と言うのは簡単だし
「死にたいくらい辛いのですね」と形式的な技術で返すのも
難しいことではない。

自分の一言で決定的に相手の未来が決まってしまうような重みのある場面に直面したとき、
果たして人はそのような機械的な振り分けで言葉を言えるのだろうか。

ただの受け止めとしての言葉と本当にその人の全体を共感した言葉は、
含まれる重みが違う。

言葉の定義とか意味の話ではなく、
言葉を介してその人と同じ風景を見ようとすること。

その人を理解したいと願い、言葉に耳を澄ませるとき、
決して自分に「死にたい」と思った過去がなかったとしても、
全身全霊で共感するとき、
まさに「死にたい」と思って苦しんできた人のように
言葉を発するのではないだろうか。

それは技術的な演出かもしれない。

確かに、真剣に向き合うとき、
出る言葉はときとして演技のようになることがあると思う。

それは心の演技ではあるが、それを欲する人にとっては、
「理解をしてくれる(しようとしてくれた)誰かが確かにいた」
という決定的な事実にも、なるはずなのだ。

誰かが分かってくれたと思うとき、
人はその関係性によって孤独感から救われる。

一人じゃないと思える。
その出来事は、
その人を支えてくれるあたたかな体験になりえるのではないか。

知識や技術、思いや人間性。それだけでは足りない。

相手との関係性や積み重ねた時間や応答。
それらの総和なのか、かけ算なのか。
どうやらそこに「いい支援とはなにか」という問いへの答えがありそうだ。


三章 支援の在り方を探して

1 支援者はなぜ必要なのか
https://note.mu/welfare/n/n8c4a4b17d938?magazine_key=m8d74f67f43fb

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