ⅱ 買い物をする


ⅰ 家出をする
https://note.mu/welfare/n/nbc1fdb793c04


知的に障害があるとしても、彼らは成長する。

いろいろな人と話していて、障害とは成長しない、
というイメージを多くの人が持っているように感じて、
「障害」について改めて考えたい。

たとえば年齢が四十歳。
三桁の足し算ができない。
とする。

ここでは、三桁の計算を学ぶのは、小学三年生くらいだと仮定する。

小学三年生よりは能力的には劣るかもしれない、四十歳。

この姿を、多くの人はどのように捉えるだろう。

「それが障害だから」と言ってしまえばその通りなのだけれど、
支援者としては、せっかくなら生活にも役立つし、
少しでも計算ができるようになってほしいと思う。

計算を身につけてもらえるように支援をしていこうとするとき、
どうするだろうか。

具体的には、
「筆算ができない。一桁の計算ならできる。繰り上がりは分からない」
というような人にどうやって計算を教えようとするだろうか。

これは実際に私が対応した一例。

お金などの物を使って具体的に数えてみるとする。

支援者は電卓を差し出してみて、利用者が使うなどして、
その人がどこまで理解ができて、どこから理解ができないかを、
まずは知ろうとする。

利用者は一から九まで数えて、十になった途端に「分からない」と言う。
支援者は十円玉を出して、「これは?」と聞いてみる。
利用者は「十円」と答える。

次に支援者は、片方の手に一円玉を十枚のせて、
もう片方の手に十円玉一枚のせて、それぞれ見比べて、
「同じ十円」という確認を利用者と一緒にしてみる。

そのときは利用者は分かるかもしれないが、
次の日になったら「分からない」と言う。
また教える。その繰り返し。

さて、ここであきらめるか、可能性を信じて教え続けるか、
支援者は考える。

「そのときは分かるのだから、教え続ければ、
 いつか理解できるのではないか」
と期待して、試しに毎日やってみる。

半年後、利用者は一円が十枚で十円、という概念が理解できている。

すると、十円が十枚で「百円が分からない」と利用者は言う。
また支援者は一緒に数えるという作業をくりかえす。

障害の程度によって差はあれ、知的障害のある人を相手にして教える、
ということは、このような根気強さを必要とする。

私が根気強く教えることができたのは、前述したように、
転職をして意気込んでいたというのもあるし、
「障害があるとはどういうことなのか」
について深く理解しようとしていたのもある。

1章で子どもと関わるときに手探りだったように、
障害のある人を知るには、とにかく関わるしかないと、
経験則からくる予感があったのもある。

これは形を変えてより難易度が高く、
同じようなプロセスを辿っていくものなのだと思ったのだ。

このようにコツコツと関わっていくのが
私の性格に合っていたというのもあるのだろう。

この支援の目標は「計算ができる」になるのだけれど、
その達成が何を意味しているのかに支援をする人は目を向けたい。

利用者の生活の何が変わるのかを考えてみる。

大雑把な足し算ができるようになる。

それはお金を使えるようになるということであり、
自分のできる範囲が広がるということであり、
生活を主体的に営むということにも繋がっているのではないか。

このようにして計算を覚えていった利用者を見て、
かつての私の上司は「障害の概念が覆った」と言った。
その人は「障害者とは一生そのままで、
 成長はしないものだと思っていた」と語った。

生活の中で選択肢が増えるということは、
利用者の生活の豊かさに繋がる。

大切なのは、自分で能動的に選択・決定し、
主体的に自分の生活を営むことだ。

選択肢の多さが重要なのではなく、自分で選んで決めている、
というこの有能感や主体性が、何より人として大切なのだと思っている。

自尊心が損なっている、あるいは自己肯定感、
自己有能感の低い多くの人が受動的だ。

彼らは自分の意志決定を過小評価している。
他人の声に大きな影響を受けてしまう。
あるいは失敗を過剰に恐れていたりもする。
できないという思い込みがあるのかもしれない。

自分で決めることの大切さは、
さかのぼると幼少期の遊びの段階で表れている。

人から指図されて遊ばされているものは、遊びとは言わない。
主体的に、自分で創意工夫を凝らすからこその、遊びだ。

学童で言えば、支援者は子ども同士を結びつける接着剤であり、
新たな方法を考える提案者であり、現場と理想の調整者である。

支援者は主役ではない。

遊びというものが、成長発達に大切な意味を持っている。
そういうことの理解は、
福祉全般に共通する「自己決定を大切にする関わり方」
を支援者に育ませてくれる。

知的に障害があっても、成長はする。
それは曲線ではなく、
ステップバイステップの階段状であると思っている。

障害の程度とは、その段差の開き具合であると、私は捉えている。

3 「自立」と「幸せ」
https://note.mu/welfare/n/nf34737ddd9a6


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